読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ふしぎなキリスト教  13 イエスは自分が復活することを知っていたか

「O いったい、どちらなのでしょう?イエスは復活を知らずに殺されたのか、知っていてとりあえず殺されたのか。

H たしかにここは、キリスト教理解の急所のひとつです。
マトリョーシカの話を思い出して下さい。その一番内側には、歴史的実在としてのイエスがいた。神の子ではありません。普通の人間として、義の教師として、パリサイ派の人々に耳障りな説教をし、捕まって、死刑になった。


人間として苦しんだと思います。それで終わりです。三日目に復活するとは、もちろん思っていない。


O 事実としてはね。歴史的な人間イエスは、冤罪で死刑になったのでしょう。でも、信仰をもってこれを読む人、つまり、神の子の話として読む人は、どういうふうに読めばよいのですが?


H (略)すっきりしようとすると、百パーセント神の子だから、人間の要素はゼロ、悩みや苦しみはあるように見えても全部演技です、ということになる。(略)これだと、矛盾なく、一神教の体裁がとれます。(略)


H これを一方の極とすれば、もう一方の極には、イエスは百パーセント人間で、神の子でも何でもない。(略)これも明快で矛盾なく一神教の体裁をとれる。


ところが、すっきりはするものの、どちらも人々を満足させなかった。そこで、論争の結果、どちらでもない中間に落ちついたのです。それも、足して二で割るのではなく、イエス・キリストは「完全な人間であって、しかも、完全な神の子である」、という結論になった。


こうなるには、深い必然があったと思う。
まず、神の子でなければ福音にならないわけだから、神の子でないといけない。でもイエスは、人間に生まれなければならなかった。


バーチャルな存在では人を救う力がないんです。実際に人間として処罰され、殺害されないと。(略)


H あえてなぞらえると、解離性同一性障害というのがある。いわゆる、二重人格ですね。一人の人格が、全く人間で、まったく神なのですから。

O まあ、そういうふうに思うしかないんですね。
福音書を読む限りは、キリストは相当、人間として苦しんでいるような気がしますね。死の予感に怯えている様にさえ思えます。いわゆる最後の晩餐があって、そのあとイエスは、弟子たちを引き連れてゲッセマネ(オリーブ山)というところまで行き、一人で祈ります。


このとき、本当にこの惨劇を避けられるものなら避けたいということを神に願っているように思います。と同時に、でもそれが神の思し召しであるなら、受け入れます、と言う風にも言う。


そこでのイエスの苦しみは、まさしく人間的な苦しみとしか言いようがない。ここを読んで僕らが強く心を動かされるのは、人間として苦しんでいるイエスの姿をそこに見るからですよね。」


〇 「バーチャルな存在では人を救う力がないんです」というのは、本当にそう思います。