読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ふしぎなキリスト教  10 予定説と資本主義の奇妙なつながり

「O (略)カルヴァン派というのは、プロテスタントのあり方の最も徹底したヴァージョンです。宗教改革はルターに始まった。ルターはまさに勇気ある一歩を踏み出したわけですが、後から登場したカルヴァンから見ると、少し不徹底なところがあった気がします。(略)


カルヴァン派の教義は、予定説(あるいは二重予定説)と呼ばれています。キリスト教徒は、最後に神の国で永遠の生を受けるか、あるいは地獄みたいな所に堕ちて、永遠の責め苦に合うかどちらかです。どちらに行くかの結論は、最後の審判で伝えられる。予定説はこれをどう考えるかと言うと、二つのポイントがあると思います。


第一に、神は、あなたが救われる側にいるのか呪われる側にいるのか、すでに決めてしまっていて、それを人間の行為によって変えることが出来ない、ということ。(略)

第二に、神が決めていることを、人間があらかじめ知ることは原理的に出来ない、ということ。
一神教の原理を純粋に徹底すると、こうなりますよね。(略)


どうして、予定説が資本主義の精神への動因となったのか。ヴェーバーの説明を解釈するかたちで、あるいは補足する形で、場合によっては批判しながら、橋爪さんのお考えを展開して頂けますか?


H キリスト教一神教なので、神には主権があって、人間を煮て食おうと焼いて食おうと勝手、神の自由だと考える。(略)


だから、人間の業の影響力はゼロであると考えるのが正しい。(略)


救済予定説は、救済が人間の行動に左右されないという説なので、これを信じる人々が勤勉になりそうにない気がする。ヴェーバーの話は逆ではないか。(略)


そうすると、人々が救済予定説を信じる社会では、だらだら自堕落に暮らす人ばかりになってしまいそうです。でも、そうならない。
どこに秘密があるかというと、自分はこのゲームからはみ出していることを証明したいから。


地上の自分の利益を考えて行動すると、自堕落に暮らすことが支配戦略になる。そういう状況で、もしも勤勉に働いている人がいたら、それは神の恩寵(恩恵のこと)によってそうなっているのです。勤勉に働くことは、神の命じた、隣人愛の実践である。この状況で勤勉なことは、神の恩寵の表われです。となると、自分が神の恩寵を受けていると確信したければ、毎日勤勉に働くしかない。


O 自分が救済されていると確信したければ、支配戦略とは違う方向に行かなければならないんですね。

H そうそう。(略)


O 怠けていると、あいつは救われてないやつだ、と見られてしまうからですね(笑)。

H そう。商売が出来なくなってしまうので、みな勤勉に働かざるをえなくなる。ヴェーバーが言っているのは、こういうことではないかな。(略)」