H 宗教改革の主題をひとことで言うなら、神からのものと人間のものを分けること。それによって、神と人間との関係を正しくすること、です。(略)
聖書が成立したあと、公会議で聖書の読み方(学説)を決めたが、それも含めて聖書と考える。こうして、
神ー聖書ー人間
という関係が確立された。これ以外に、間に誰か(人間)が立ってはいけない、と考えるわけです。これを、聖書中心主義という。(略)
カトリック教会には、ミサとか、聖職者(司祭や神父)とかあるが、それらは聖書に根拠を持たない。ゆえに、存在すべきでない。教会堂もなくて良い。儀式もなくて良い。極端を言えば、聖書さえあればよく、自分と神だけが対話している、これが理想です。
そこで、教会は必要ないという、無教会派も現れる。ふつうはプロテスタントも、そこまで極端なことは言わず、たいてい集団(教会)を作って、牧師を置いています。
さて、聖書は文字通りには読めない書物だということを言いました。解釈しながらでないと読めない。でもそれは、自分勝手な解釈ではいけない。解釈は「人間のもの」だからです。
そこで公会議の決定をへた、三位一体説に従う。その他、正統な解釈に従う。ここまでは、プロテスタントも認める。ところがカトリック教会は、聖書に書かれていないし公会議の正統な解釈でもない、根拠の曖昧な教会の伝承などに従って、聖人崇拝や煉獄の教えや免罪符の販売や告解や七つの秘蹟などを行って来た。それらを、プロテスタントは認めません。
この結果、プロテスタントは、いくつものグループ(教会)に分かれるほかなくなります。(略)だから、ルター派やカルヴァン派や、クウェーカーやバプティストや、アングリカン・チャーチ(英国国教会)や、それこそ無数の教会(宗派)があるのです。(略)
H カトリックは、救済のためには教会が必要だと考えている。(略)
なお、プロテスタントの教会では、カトリックの洗礼を有効なものと考えていて、カトリック教会の信徒がやって来ても、聖餐(パンとぶどう酒の儀式)にあずかれます。逆もそうだと思う。この点、分裂したとはいえ、両者はひとつの教会なのです。(略)」