「O おそらく中世の神学者・哲学者はイスラムから逆輸入する形でアリストテレスを再発見した時、アリストテレスの哲学の緻密さに驚いたことでしょう。で、それと同じような水準で教義の研究をするようになって行って、哲学がどんどん発達してくるわけですけど、
僕が良くわからないのは、その際に彼らが神の存在証明に熱中した事です。普通に考えれば、彼らにとって神が存在することは証明の対象ではなく、前提ですよね?(略)
どうして、神の存在を自明視しているはずの人たちが、あれほど強迫的に存在証明に拘ったのでしょうか?
H なかなか、難しい問題ですね。
まず、一神教では、存在は二段階になっている。神は存在している。神のつくった世界も存在している。存在としては同じ。でも、そのランクが違う。
我々の知っている存在は、目で見えて、手で触れて、その辺にあって…という、世界内存在とでも言うべきもの。それに対して神の存在は、目に見えないし、確かめられない。(略)
だから、二段ロケットになっている。理性で行ける所まで行って、その先は行けない。その先に神がいるのなら、信仰を接ぎ足して、二段ロケットでそこに届く。これが普通の素朴なキリスト教の考え方だと思う。
存在証明は、これを信仰なしでやろうとしているのだから、過剰な野心なんですね。理性に過剰な思い入れがある人のやること。出来なくて当たり前、ダメ元なんです。(略)
キリスト教というのは、ボールが存在しているはずのない真空の場所で思いっきり素振りしたら、どういうわけか真空の中から飛び出してきたボールに当たって、そのままスタンドインのホームランになってしまった、というような仕方で影響を残していると思う事があります。」
〇 この最後の「真空の中の素振り」の話を聞いて、またまた「サピエンス全史 下」を思い出しました。引用します。
「この制度では、人々は想像上の財、つまり現在はまだ存在していない財を特別な種類のお金に換えることに同意し、それを「信用(クレジット)」と呼ぶようになった。この信用に基づく経済活動によって、私たちは将来のお金で現在を築くことができるようになった。
信用という考え方は、私たちの将来の資力が現在の資力とは比べ物にならないほど豊かになるという想定の上に成り立っている。」(サピエンス全史 下 より)
〇 信用に基づく経済活動をするようになったのも、科学技術の進歩があったのも、キリスト教の影響による、ということになると、確かに、「本当には」神などないのに、皆がそれを、本気で信じたために、「信用」が出来、科学技術も進歩して、「ホームラン」になったように見えます。
「サピエンス全史 上 」真の信奉者 の文章を引用します。
さらに、「サピエンス全史 上」 から、この言葉ももう一度載せておきます。
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「効力を持つような物語を語るのは楽ではない。難しいのは、物語を語ること自体ではなく、あらゆる人を納得させ、誰からも信じてもらうことだ。歴史の大半は、どうやって膨大な数の人を納得させ、神、あるいは国民、あるいは有限責任会社にまつわる特定の物語を彼らに信じてもらうかという問題を軸に展開してきた。
とはいえ、この試みが成功すると、サピエンスは途方もない力を得る。なぜなら、そのおかげで無数の見知らぬ人同士が力を合わせ、共通の目的の為に精を出すことが可能になるからだ。
想像してみてほしい。もし私たちが川や木やライオンのように、本当に存在するものについてしか話せなかったとしたら、国家や教会、法制度を創立するのは、どれほど難しかったことか。」
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