読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

サピエンス全史 上  第2章 虚構が協力を可能にした

「(略)
それどころか、サピエンスとネアンデルタール人との間の、証拠が残っている最古の遭遇では、ネアンデルタール人が勝利した。約十万年前、サピエンスの複数の集団が、ネアンデルタール人の縄張りだったレヴァント地方(訳注 地中海東岸の地方)に移り住んだが、揺るぎない足場は築けなかった。(略)

太古のサピエンスは見かけは私たちと同じだが、認知的能力(学習、記憶、意志疎通の能力)は格段に劣っていた。彼らに英語を教えたり、キリスト教の教義が正しいと信じさせたり、進化論を理解させたりしようとしても、おそらく無駄だっただろう。」

「だがその後、およそ七万年前から、ホモ・サピエンスは非常に特殊なことを始めた。そのころ、サピエンスの複数の生活集団が、再びアフリカ大陸を離れた。

今回は、彼らはネアンデルタール人を始め他の人類種をすべて中東から追い払ったばかりか、地球上からも一掃してしまった。サピエンスは驚くほど短い期間でヨーロッパと東アジアに達した。(略)

約七万年前から約三万年前にかけて、人類は舟やランプ、弓矢、針(暖かい服を縫うのに不可欠)を発明した。芸術と呼んで差しつかえない最初の品々も、この時期にさかのぼるし(図4のシュターデル洞窟のライオン人間を参照のこと)、宗教や交易、社会的階層化の最初の明白な証拠にしても同じだ。

ほとんどの研究者は、これらの前例のない偉業は、サピエンスの認知的能力に怒った革命の産物だと考えている。」

「このように七万年前から三万年前にかけて見られた、新しい思考と意思疎通の方法の登場のことを、「認知革命」という。その原因は何だったのか?
それは定かではない。最も広く信じられている説によれば、たまたま遺伝子の突然変異が起こり、サピエンスの脳内の配線が変わり、それまでにない形で考えたり、まったく新しい種類の言語を使って意思疎通をしたりすることが可能になったのだという。」

「オウムは、電話の鳴る音や、ドアがバタンと閉まる音、けたたましく鳴るサイレンの音も真似できるし、アルベルト・アインシュタインが口に出来ることは全て言える。

アインシュタインがオウムに優っていたとしたら、それは口頭言語での表現ではなかった。それでは、私たちの言語のいったいどこがそれほど特別なのか?(略)

サバンナモンキーは仲間たちに、「気をつけろ!ライオンだ!」と叫ぶことは出来る。だが、現生人類は友人たちに、今朝、川が曲がっているところの近くでライオンがバイソンの群れの跡をたどっているのを見た、ということが出来る。(略)

これとは別の説もある。私たちの独特の言語は、周りの世界についての情報を共有する手段として発達したという点では、この説も同じだ。(略)

この説によれば、ホモ・サピエンスは本来、社会的な動物であるという。私たちにとって社会的な協力は、生存と繁殖のカギを握っている。個々の人間がライオンやバイソンの居所を知っているだけでは十分ではない。自分の集団の中で、誰が誰を憎んでいるか、誰が誰と寝ているか、誰が正直か、誰がずるをするかを知ることの方が、はるかに重要なのだ。」

〇「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。」(ヨハネによる福音書 1-1)を思い出します。
言葉によってサピエンスが「特別な動物」になったということを、「初めに言(ことば)があった」という言葉で表現していることに、感心します。
その本当の意味、深い意味、未知の意味を感じ取るからこそ、西洋人は、言葉に拘り、言葉による真理を積み上げようと、哲学に拘ったのだろう、と感じます。

そして、ここで、「誰が正直か、誰がずるをするか…」の言葉で、私はまたまた安倍政権の人々を思い浮かべました。
本当に本当に、あんなあからさまにズルをしている人々を、私たちは政治のトップに置いておいていいのでしょうか?
私たちは、平気でズルをする国です、と宣言しているに等しいと思います。子供たちにどうやって説明しますか?
情けなくて、恥ずかしくて、やりきれません。

プジョー伝説>

「陰口を利くというのは、ひどく忌み嫌われる行為だが、大人数で協力するには実は不可欠なのだ。新世代のサピエンスは、およそ七万年前に獲得した新しい言語技能のおかげで、何時間も続けて噂話が出来るようになった。
誰が信頼できるかについての確かな情報があれば、小さな集団は大きな集団へと拡張でき、サピエンスは、より緊密でより精緻な種類の協力関係を築き上げられた。」

「噂話はたいてい、悪行を話題とする。噂好きな人というのは、元祖第四階級、すなわち、ずるをする人やたかり屋について社会に知らせ、それによって社会をそうした輩から守るジャーナリストなのだ。」
〇私たちの社会では、その「ジャーナリスト」の力が弱いのでしょうか。それとも、あまりにもずるをする人やたかり屋の力が強いので、沈黙するしかないのでしょうか。

「とはいえ、私たちの言語が持つ真に比類ない特徴は、人間やライオンについての情報を伝達する能力ではない。むしろそれは、まったく存在しないものについての情報を伝達する能力だ。

見たことも、触れたことも、匂いを嗅いだこともない、ありとあらゆる種類の存在について話す能力があるのは、私たちの知る限りではサピエンスだけだ。」

「伝説や神話、神々、宗教は、認知革命に伴って初めて現れた。それまでも、「気をつけろ!ライオンだ!」と言える動物や人類種は多くいた。だがホモ・サピエンスは認知革命のおかげで、「ライオンはわが部族の守護霊だ」という能力を獲得した。
虚構、すなわち架空の事物について語るこの能力こそが、サピエンスの言語の特徴として異彩を放っている。」

「だが虚構のおかげで、私たちはたんに物事を想像するだけではなく、集団でそうできるようになった。聖書の天地創造の物語や、オーストラリア先住民の「夢の時代(天地創造の時代)」の神話、近代国家の国民主義の神話のような、共通の神話を私たちは紡ぎ出すことができる。そのような神話は、大勢で柔軟に協力するという空前の能力をサピエンスに与える。

アリやミツバチも大勢で一緒に働けるが、彼らのやり方は融通が利かず、近親者としかうまくいかない。オオカミやチンパンジーはアリよりもはるかに柔軟な形で力を合わせるが、少数のごく親密な個体とでなければ駄目だ。
ところがサピエンスは、無数の赤の他人と著しく柔軟な形で協力できる。だからこそサピエンスが世界を支配し、アリは私たちの残り物を食べ、チンパンジーは動物園や研究室に閉じ込められているのだ。」

「<プジョー伝説>(略)
アルファオスはたいてい、競争相手よりも身体的に強いからではなく、大きくて安定した連合を率いているから、その地位を勝ち取れる。」

「自然状況下では、典型的なチンパンジーの群れは、およそ二〇~五〇頭から成る。群れの個体数が増えるにつれ、社会秩序が不安定になり、いずれ不和が生じて、一部の個体が新しい群れを形成する。

100頭を超える集団を動物学者が観察した例は、ほんの一握りしかない。(略)
一つの集団が、近隣の群れの成員のほとんどを計画的に殺害する「大量虐殺」活動さえ、一件記録されている。」

「認知革命の結果、ホモ・サピエンスは噂話の助けを得て、より大きくて安定した集団を形成した。だが、噂話にも自ずと限界がある。社会学の研究からは、噂話によってまとまっている集団の「自然な」大きさの上限がおよそ150人であることがわかっている。
ほとんどの人は、150人を超える人を親密に知ることも、それらの人について効果的に噂話をすることも出来ないのだ。」

「近代国家にせよ、中世の教会組織にせよ、古代の都市にせよ、太古の部族にせよ、人間の大規模な協力体制は何であれ、人々の集合的想像の中にのみ存在する共通の神話に根差している。

教会組織は共通の宗教的神話に根差している。たとえばカトリック教徒が、互いに面識がなくてもいっしょに信仰復興運動に乗り出したり、共同で出資して病院を建設したりできるのは、神の独り子が肉体を持った人間として生まれ、私たちの罪を贖うために、あえて十字架に架けられたと、みな信じているからだ。(略)

司法制度は共通の法律神話に根差している。互いに面識がなくても弁護士同士が力を合わせて、赤の他人の弁護をできるのは、法と正義と人権_そして弁護料として支払われるお金_の存在を信じているからだ。

とはいえこれらのうち、人々が創作して語り合う物語の外に存在しているものは一つとしてない。宇宙に神は一人もおらず、人類の共通の想像の中以外には、国民も、お金も、人権も、法律も、正義も存在しない。」

〇神も国民もお金も人権も法律も正義も全て人間の創り出した「物語」だ、と言い切っている。敢えて、言い切っているところに、著者の強い主張が感じられる。

「「原始的な人々」は死者の霊や精霊の存在を信じ、満月の晩には毎度集まって焚火の周りでいっしょに踊り、それによって社会秩序を強固にしていることを私たちは簡単に理解できる。

だが、現代の制度がそれとまったく同じ基盤に依って機能していることを、私たちは十分理解できていない。

企業の世界を例に取ろう。現代のビジネスマンや法律家は、じつは強力な魔術師なのだ。彼らと部族社会の呪術師(シャーマン)との最大の違いは、現代の法律家の方が、はるかに奇妙奇天烈な物語を語る点にある。その格好の例がプジョーの伝説だろう。」
「もしプジョーの創業者一族のジャンが13世紀のフランスで荷馬車製造工場を開設していたら、いわば彼自身が事業だった。もし彼の製造した荷馬車が購入後一週間で壊れたら、買い手は不満を抱き、ジャンその人を告訴しただろう。(略)

彼は、工場のせいで抱え込んだ負債がどれだけの金額にのぼろうとも、すべて支払う全面的な義務を負わされるのだ。
もしあなたが当時生きていたらおそらく、自分の事業を始めるのに二の足を踏んだだろう。そして、このような法律上の状況のせいで、起業家精神が現に抑え込まれていた。人々は新しい事業を始めて経済的な冒険をすることを恐れた。家族を貧困のどん底に突き落とす危険を冒すだけの価値があるとは、とても思えなかったからだ。

だからこそ、人々は有限責任会社の存在を集団的に想像し始めた。そのような会社は、それを起こしたり、それに投資したり、それを経営したりする人々から法的に独立していた。その手の会社は、過去数世紀の間に、経済の分野で主役の座を占め、ごく当たり前になったため、私たちはそれが自分たちの想像の中にのみ存在していることを忘れている。」

〇つまり、有限責任会社の起業者は、もし事業に失敗しても、抱え込んだ負債を全て支払う全面的な責任は負わされていない、ということなのでしょうか?
ドラマなどで見ると、中小企業の起業者は、いつもとことんまで追い詰められ、悲惨な最後になる、という話ばかりが印象に残っているのですが…。

「製造した車の一台が壊れたら、買い手はプジョーを告訴できるが、アルマン・プジョーは告訴できない。会社が何百万フランも借りた挙句、倒産しても、アルマン・プジョーは債権者たちに対して、たったの一フランも返済する義務はない。
つまるところ、お金を借りたのはプジョーという会社であって、ホモ・サピエンスのアルマン・プジョーではないのだ。」

「効力を持つような物語を語るのは楽ではない。難しいのは、物語を語ること自体ではなく、あらゆる人を納得させ、誰からも信じてもらうことだ。歴史の大半は、どうやって膨大な数の人を納得させ、神、あるいは国民、あるいは有限責任会社にまつわる特定の物語を彼らに信じてもらうかという問題を軸に展開してきた。

とはいえ、この試みが成功すると、サピエンスは途方もない力を得る。なぜなら、そのおかげで無数の見知らぬ人同士が力を合わせ、共通の目的の為に精を出すことが可能になるからだ。

想像してみてほしい。もし私たちが川や木やライオンのように、本当に存在するものについてしか話せなかったとしたら、国家や教会、法制度を創立するのは、どれほど難しかったことか。」

〇この話を逆にたどって行くと、私たちの社会は、国家や法制度を隣の国、中国を真似て作り、明治期には、ヨーロッパを真似、戦後はアメリカを真似たけれど、自分たちで作るには、あらゆる人を納得させ、誰からも信じてもらう「効力を持つ物語」を語らなければならない、ということになります。
そして、膨大な数の人を納得させるために歴史の大半を費やして、様々な展開をして行かなければその試みはうまく行かない、と。

「想像上の現実は噓とは違い、誰もがその存在を信じているもので、その共有信念が存在する限り、その想像上の現実は社会の中で力をふるい続ける。シュターデル洞窟の彫刻家は、ライオン人間の守護霊の存在を心の底から信じていたかもしれない。

魔術師のうちにはペテン師もいるが、ほとんどは神や魔物の存在を本気で信じている。百万長者の大半はお金や有限責任会社の存在を信じている。人権擁護運動家の大多数が、人権の存在を本当に信じている。

2011年に国連がリビア政府に対して自国民の人権を尊重するよう要求した時、噓をついている人は一人もいなかった_国連も、リビアも、人権も、すべて私たちの豊かな想像力の産物にすぎないのだが。

サピエンスはこのように、認知革命以降ずっと二重の現実の中に暮らしてきた。一方には、川や木やライオンと言った客観的現実が存在し、もう一方には、神や国民や法人といった想像上の現実が存在する。

時が流れるうちに、想像上の現実は果てしなく力をマシ、今日では、あらゆる川や水やライオンの存続そのものが、神や国民や法人といった想像上の存在物あってこそになっているほどだ。」

 

<ゲノムを迂回する>

 

「言葉を使って想像上の現実を生み出す能力のおかげで、大勢の見知らぬ人同士が効果的に協力できるようになった。だが、その恩恵はそれにとどまらなかった。


人間同士の大規模な協力は神話に基づいているので、人々の協力の仕方は、その神話を変えること、つまり別の物語を語ることによって、変更可能なのだ。

適切な条件下では、神話はあっという間に現実を変えることが出来る。たとえば、1789年にフランスの人々は、ほぼ一夜にして、王権神授説の神話を信じるのをやめ、国民主権の神話を信じ始めた。」


〇ここにある、、「神話はあっという間に現実を変えることができる」という言葉を読みながら、「あっという間に変える」という文章に聞き覚えがあると思いました。
そこで、「「空気」の研究」のメモを読み直してみました。

たしか、終戦直後、それまで鬼畜米英、忠君愛国と叫んでいた人々が、あっという間に、民主主義信奉者になったというようなことが書かれていた、と思って読み返したのですが、「空気を作り出す基のもの」についての話ばかりをメモしていたようです。

「では以上のような「天皇制」とは何かを短く定義すれば、「偶像的対象への臨在感的把握に基づく感情移入によって生ずる空気的支配体制」となろう。天皇制とは空気の支配なのである。従って、空気の支配をそのままにした天皇制批判や空気に支配された天皇制批判は、その批判自体が天皇制の基盤だという意味で、初めからナンセンスである。(「空気」の研究より」)

「あっという間に変わる」のは、様々な表面的な態度であって、この「偶像的対象への臨在感的把握に基づく感情移入によって生ずる空気的支配体制」は変わらない、とあります。

つまり、私の理解によれば、ハラリ氏のいう「神話」はその根幹に「言葉」がある。聖書にもあるように、言葉は神だとまで考えるほどに、言葉に対する拘りが強い。

だから、そこの「神話」が揺らがない限り、その言葉によって新たに作られた神話を信ずることは、「あっという間に」出来る。

でも、日本の場合、「神話」の根幹には「言葉」はない。あるのは臨在感的把握に基づく感情移入。

そうなると、一体どうなるのだろう?
知的レベルが高いはずの官僚も、知的な判断ではなく、感情的な判断になってしまう、ということなのだろうか?

よくわからないので、この疑問はこのままに、次に進みたいと思います。

「他の社会的な動物の行動は、遺伝子によっておおむね決まっている。DNAは専制君主ではない。動物の行動は環境要因や個体差にも影響を受ける。とはいえ、特定の環境では、同じ種の動物はみな、似通った行動を取る傾向がある。

一般に、遺伝子の突然変異なしには、社会的行動の重大な変化は起こり得ない。(略)


それと同じような理由で、太古の人類は革命はいっさい起こさなかった。」

 

「それとは対照的に、サピエンスは認知革命以降、自らの振る舞いを素早く変えられるようになり、遺伝子や環境の変化をまったく必要とせずに、新しい行動を後の世代へと伝えていった。

その最たる例として、カトリックの聖職者や仏教の僧侶、中国の宦官といった、子供を持たないエリート層が繰り返し現れたことを考えてほしい。


そのようなエリート層の存在は、自然選択の最も根本的な原理に反する。なぜなら社会の有力な成員である彼らは、子孫をもうけることを自ら進んで断念するからだ。」


〇この話も私たちの国の実態とは違うような気がする。

「私たちはネアンデルタール人の頭の中に入り込んで彼らの思考方法を理解することはできないものの、ライバルのサピエンスと比べた時に、彼らの認知的能力の限界を示す間接的な証拠はある。


ヨーロッパの中心部で三万年前のサピエンスの遺跡を発掘している考古学者は、地中海や大西洋の沿岸から持ち込まれた貝殻をときおり発見する。


それらは、サピエンスの異なる集団の間での長距離交易を通して大陸の内奥に至った可能性が非常に高い。ところが、ネアンデルタール人の遺跡では、そうした交易の証拠は全く見られない。彼らの集団はみなそれぞれが、地元の材料を使って道具を作っていた。(略)


交易は、虚構の基盤を必要としない。とても実際的な活動に見える。ところが、交易を行う動物は、じつはサピエンス以外にはなく、詳しい証拠が得られているサピエンスの交易ネットワークはすべて虚構に基づいていた。


交易は信頼抜きには存在しえない。だが、赤の他人を信頼するのは非常に難しい。今日のグローバルな交易ネットワークは、ドルや連邦準備銀行、企業を象徴するトレードマークといった虚構の存在物に対する信頼に基づいている。」


〇この交易についての文章で、先日読んだ「下流志向_学ばない子どもたち 働かない若者」の中の「沈黙交易」を思い出しました。

「ある部族が共同体の境界線のところに何か品物を置いておく。すると、別の部族が来て、その品物を取って、代わりに別の品物を置いて帰る。この繰り返しが交易の起源とされています。」

「誰が決めたか知りませんけれど、人類最古の交換ルールは、「なんだかわからないものをもらったら、返す義務が発生する」というものなのです。
ですから、沈黙交易では等価物の交換ということはありえません。(略)


もう一つ大事な事は、交換はそのつどすでに始まっているということです。沈黙交易においては「最初に贈り物をした人」というのは実は存在しないのです。(「下流志向_学ばない子どもたち 働かない若者」より」

 

<歴史と生物学> 

「(略)
とはいえ、個体や家族のレベルでの違いを探すのは誤りだ。1対1、いや10対10でも、私たちはきまりが悪いほどチンパンジーに似ている。重大な違いが見えてくるのは、150という個体数を超えた時で、1000~2000という個体数に達すると、その差には胆をつぶす。


もし何千頭ものチンパンジー天安門広場ウォール街、ヴァチカン宮殿、国連本部に集めようとしたら、大混乱になる。それとは対照的に、サピエンスはそうした場所に何千という単位でしばしば集まる。(略)


私たちとチンパンジーとの真の違いは、多数の個体や家族、集団を結び付ける神話という接着剤だ。この接着剤こそが、私たちを万物の支配者に仕立てたのだ。」


「認知革命以降の生物学と歴史の関係をまとめると、以下のようになる。


a 生物学的特性は、ホモ・サピエンスの行動と能力の基本的限界を定める。歴史はすべてこのように定められた生物学的特性の領域(アリーナ)の境界内で発生する。

 


b とはいえ、このアリーナは途方もなく広いので、サピエンスは驚嘆するほど多様なゲームをすることができる。サピエンスは虚構を発明する能力のおかげで、次第に複雑なゲームを編み出し、各世代がそれをさらに発展させ、練り上げる。


c その結果、サピエンスがどう振舞うかを理解するためには、彼らの行動の歴史的深化を記述しなくてはならない。私たちの生物学的な制約に言及するのは、サッカーのワールドカップを観戦しているラジオのスポーツキャスターが、選手たちのしていることの説明ではなく、競技場の詳しい説明を聴取者に提供するようなものだ。

それでは、石器時代の私たちの祖先は、歴史というアリーナでどのようなゲームをしたのだろう?(略)


次章では、長い歳月の帳の向こうを覗き、認知革命と農業革命を隔てる数万年間には、どのような生活が営まれていたかを考察する。」


〇「サピエンスがどのような生活を営んでいたのかについて考察する」という文章を読み、以前読んだ、「日本中世の民衆像」と同じ精神を感じました。