読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

日本はなぜ敗れるのか _敗因21か条

「昭和十九年四月末、私は門司の旅館に居た。学校らしい建物にも民家にも兵隊があふれていた。みなここで船に積まれ、どこかへ送られる。大部分がおそらく比島であろう。

アメリカの潜水艦は、日本全体が緒戦の”大勝利”の夢からまだ醒めぬ十八年の九月に、すでに日本の近海で自由自在に活躍していた。潜水艦による輸送船の沈没は、原則として一切新聞に出ない。

従って以下に記す小松氏の記録は、十八年当時の海没の、まことに珍しい「目撃者の記録」である。

『比島行   台東製糖株式会社の酒精工場で庶汁(さとうきびの汁)からブタノールを製造する工業的試験に成功。酒精工場をブタノール工場に切り換え改造中のある日(昭和十八年七月)台湾軍兵器部から出頭するよう電話があったので、何事かと台北まで急行した。(略)

今井大尉は机の引き出しから書類を出し「実は君、名誉の話で、陸軍省整備局長から檜口台湾軍参謀長あての公電で(台東製糖会社酒精工場長小松真一を比島の軍直営ブタノール試験工場設立要員として斡旋を乞う)こう来ているんだが是非行ってくれ」
(略)

「会社も九月一日付で明治製糖と合併になるから比島に行くのも良いだろう」との意見で、重森重役から明治製糖の重役に話をしてもらい、比島行きを決定した。』


『内地帰還   当時の内台航路は、高千穂丸を始め次々と雷撃を受けて沈んでいき残るは富士丸、欧緑丸、鴎丸だけとなっていたので、なかなか乗船は困難だった。(略)海上危険の時、夫婦子供が別の船に乗る手はない。死なば諸共と心臓的交渉をした。

当時富士丸は最優秀船で速力があるので一番安全の船とされ、この船の切符には「プレミアム」がつく位だったので、欧緑丸に席を持っていた陸軍少将の人に交渉して交換してもらい、家族一同どうやら同じ船で内地へ行くことになった。(略)』


『海難   十月に十五日、富士丸、欧緑丸、鴎丸の三艘は駆逐艦一と飛行機二に護衛されながら堂々とキイルン港を出港、十三ノットの優秀船団で二十五、二十六日を無事航海した。

二十七日の夜半突然の砲声に一同飛び起きる。船は全速でジグザグに逃げまどう。(略)生きた心地なく子供等の身支度をしているうち、どうやら危機を脱したようだ。

夜明け、船が止まったので甲板に出て見れば前方に鴎丸が沈没しかかっていた。
遭難者が、ボート、筏で流れて来るのを、富士丸と共に救助した。救助といっても潮流の下手で、これら遭難者の、しかもちょうど二艘の船の処へ運よく流れ着いたボートや筏を救助するだけで、少し離れたところを流れて行くボートや筏は「オーイ」「オーイ」というだけで遠くへ流されて行ってしまう。

ボートの水兵が腰にロープをつけて我々の船まで泳いできて、ボートを手繰り寄せる等、元気者もいた。血だらけの者もあり、女子供は狂気した様だった。


それでも八時頃までかかってやっと救助作業を終わった。この間護衛(の駆逐)艦は敵潜の上とおぼしきあたりに止まっていた。


突然、すぐ目の前の富士丸の胴体から水煙があがった。やられたと船室に飛び込み子供らに用いをさせる。窓から見れば、富士丸はもう四十五度に傾きついで棒立となって沈んでしまった。雷撃後3分30秒であっけなく姿を消した。


我々の船は全速で逃げ、四時間後に再び富士丸遭難地点に戻り、救助にかかる。又、やられはせぬかと気が気でない。沖縄からきた飛行機が二機、潜水艦を探している。

富士丸の遭難者の大半を救助した頃、我々の船めがけて三本の雷跡。あわてて室に帰る。船は急旋回。そのとき、ドスンと大きな音がした。もうだめだ。が、幸い魚雷は不発で助かった。船からは大砲を乱射する、爆雷は落とす、全速で逃げ回る。生きた心地はない。門司までの一昼夜は実に長い、嫌な、命の縮まるような思いをした。

歩き始めの紘行も、この船旅にすっかり弱って歩けなくなってしまった。(略)』


結局、台湾を出港した当時の最優秀船三隻は、駆逐艦と航空機に護衛され、自らも対潜水艦用の砲を搭載しながら、三隻とも電撃をうけた。小松氏の乗った欧緑丸が無事助かったのは、奇蹟的に魚雷が不発だったというだけである。

これがその約半年後の昭和十九年四月となると、あらゆる面で、危機の度は倍増も三倍増もしていた。氏は雷撃をうけた富士丸が、わずか3分30秒で沈んだと正確に時間を計っておられる。(略)

だが私が乗船した頃には、米軍の魚雷が高性能になるとともに日本側は老朽船のみになっており、平均十五秒で沈没した。」