読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

「正義」を考える  生きづらさと向き合う社会学

「<普遍主義のアンチノミー再考>
こう考えると、いろいろな問題を解く手がかりが出てきます。まず、前章で、普遍主義のアンチノミ―と呼んだ問題を、考え直すことができます。こういう問題でした。


別の共同体で、我々から見て、とてつもない虐待や人権侵害が行われている時、我々はどうすべきか。もし、それを制止すべく介入するとすれば、それは、どのようにして正当化できるのか。それとも、うるさい介入を避けるべきなのか。普遍主義の名の下に、介入も不介入もともに正当化できてしまう。前章でこのように論じました。(略)



例えば、ヒンドゥー文化の中にいる女たちは、寡婦殉死の習慣の中で自分に与えられる役割に、どうともおさまりのいかない「納得のいかなさ」を持っているかもしれない。その「納得のいかなさ」が、プラスアルファと呼んだものです。(略)


「われわれ」と「彼ら」の双方に同じものがあるとすれば、この違和感、このプラスアルファに相当する部分です。でも、それを人権思想のような積極的な概念でとらえ直そうとしてもそれはできません。」


「<異文化との連携の根拠>
(略)ただ、強いて言うと、次のようなことが、判断するための一つのメルクマークになる。その習慣に苦痛を感じるか、そこで自分は犠牲になっていると感じる人が、隣の文化にいるかどうかです。


どんなにそれぞれの文化の伝統や価値観、あるいはそれぞれの文化の徳や善の観念によって正当化されていたとしても、それらによって犠牲を強いられていると感じる者がいる場合には、そこには、伝統や価値観や善や徳やらによって回収できない「残余」がある、ということができるでしょう。ここまで述べてきたように、その残余が、<普遍的連帯>の根拠になり得ます。」




「だから、むしろ僕としては、こう言いたい。それぞれの文化が内に保持している「自己に対する不寛容」によって連帯する、と。あるいは、自らの中に収容しきれないような_あえて言うと「自己に対する否定性」_、そういうものによって繋がる、と。」



「<イエスの喩え話再考>
(略)例えば、日没まで仕事がなかったブドウ園の労働者とは、失業者ですね。彼らは、誰からも声がかからない。誰からも呼びかけられない。誰も必要だとは言ってくれない。


つまり、誰からも何者かとして認められていないのです。つまり、彼はもはや人間として何者でもない、という状態です。



僕は、①の肯定性の水準ではなく、②の否定性の水準でこそ、<普遍性>が成り立つのであり、それを根拠に人は連帯できるのではないか、ということを述べてきました。ブドウ園の労働者や放蕩息子は、②だけになってしまった主体、純粋な否定性に還元された主体です。


しかし、この否定性こそが連帯のための紐帯になる。だから、神(ブドウ園の主人、兄弟の父親)は、彼らに声をかける。放蕩息子の喩え話で、父親は、「この息子は死んでいたのに生き返った」と言いますね。それは、今述べたような、純粋な否定性(死んでいる状態)からの救出を指しているのではないでしょうか。」