読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(現地を知らぬ帝国陸軍)

「陸軍は、比島派遣軍を現地で自活させるという方針を取りながら、現地の実情には全く盲目であった。そしてその無知はまず基本的な問題「食糧問題」で露呈し、ついでその露呈は、宗教問題・社会問題・男女の問題からあらゆる問題へと及んでいった。



おそらく軍は、「南方は食糧の宝庫、年に三回米がとれる。だから、少し指導してやれば、軍の自活は可能だ」ぐらいのことを考えていたのであろう。だがこれこそ「完全なる無知」の表白であって、戦前の比島は、年々約三百万石の米を輸入していた。農業国なのになぜ米を輸入するのか、技術が低いのか怠惰なのか?


そうではない。私は現地で麻のプランテーションをの見て、はじめて「農業国」と言う言葉で日本の農村を連想してはならないことを知った。高名なマニラ麻、かつてこの種の麻の世界市場で九三%のシェアを誇ったプランテーションは、農業と言うより「農産工業」とでも言うべきもので、その広大な麻畑は、繊維しか生み出さないという点では、ナイロン・プラントと変わりはない。(略)



そしてそういう状態でプランテーションの中に迷い込めば、畑の真ん中で餓死しても不思議ではない。だがこの「畑の真ん中で餓死しうる」という状態が「農業国」という言葉から浮かび上がってこないから誤解する。
軍の誤解はここにあったと思うが、しかし、この点の認識は戦後の人間も変わりがないように私は思う。」




「一方、マニラやバギオ等の大都市は、主として輸入された三百万石で生活しており、輸入先はサイゴンで、十九年の十月頃でもここで食べる米は細長いあのサイゴン米であった。この米を握っているのは華僑、そしてこれが途絶すれば、たちまち食糧暴動が起きて不思議ではない。



一方、山岳州には「高地人」のイゴロット族が住み、ここの主食はイモで、自給自足である。私はこの地方を知らないが、ここに撤退した人々の話によると、撤退してきた部落が、おそらく数家族用と思われる山畑のイモを全部食べつくす。すると次に来た部隊はイモの葉を食べつくす。その次の部隊はイモのツルを食べつくす。青々としたイモ畑は、たちまち赤土の山肌に一変する。



中国人は皇軍をもじって蝗軍と言ったそうだが、まさに蝗軍である。そしてイナゴが青いものを食いつくして斃死するように、日本軍も、その殆どが餓死した。アメリカの戦史は短くかつ冷酷にこれを記している。
「尚武集団(比島派遣第十四方面軍)の殆どすべては餓死である」と。(略)



フィリピン人は、元来は、必ずしも親米ではなかった。むしろ逆であった。だが上記の諸要素が、少なくとも当時迄は非常に強い反米感情をもっていた人々まで、無理矢理「親米」に追い込んだ。そのよい例がミンダナオのイスラム教徒モロ族である。



彼らは反マニラ・反米のかたまりだったのだが、大規模な抗日の火蓋を切ったのは、彼らであった。昭和十七年九月ミンダナオ島ダンサランの守備隊一個中隊がモロ族の攻撃をうけ、文字通りに一人残さず殺された。そのあとは全島一斉蜂起である。(略)



だが軍はまだ事態の真因がつかめていなかった。妄想と錯覚は余りに強かった。
そして、とんでもないことになったと感づいたのは、十九年に入ってからではなかったろうか。(略)



しかし、兵力が増せば増すほど食糧問題と文化的摩擦は激化し、ゲリラは幾何級数的に勢力を増大していく。というのはその勢力は「数」では計れず、日々の生活に忙しいため必然的に中立的になる住民が、どちらに傾くかで決まるからである。」



「例を一、二あげよう。たとえばセックスの問題である。確かにマニラに街娼はいるが、この国はカトリック圏に属するから、元来は性に峻厳で、離婚もない。宗教的戒律というものは、本家より辺境の方が厳しくなるものらしく、ローマよりスペイン、スペインよりフィリピン、フィリピンでもマニラより地方の方が厳しいそうである。



戦争中、日本人と結婚したフィリピン女性が、戦後、夫の生死が不明なので、離婚を認めてくれるよう裁判所に訴えたが却下されている。また婦女暴行は許されざる罪で、戦後、輪姦をした五人のフィリピン男性がみな死刑の判決を受けている。



これは今の日本でも考えられないことだが、当時の日本の農村に残っていた「夜這い」などは、このことを考えればとんでもない結果になる。
だがsろえでいて、当時の日本の女性とフィリピンの女性を比べれば、その態度は、後者の方がはるかに開放的であり、一言でいえば驚くほどセクシーであった。その差は、戦前の楚々とした日本女性と、現代女性との差より大きかったであろう。



何も知らない兵士たちは、これをひどく誤解し、「ああいう態度をしてウィンクしたのだから、これはきっとこうなのだ」と一方的に思い込んでしまう。いわば「イタリア男の甘言に弱い日本娘」の逆現象に似ているが、この場合は相手にその気が全くなく、彼女たちとしてはごく普通に振舞っているのだから問題である。



しかも一方は性的にルーズな伝統にあって罪悪感はなく、他方は極端なほど峻厳なのだから、問題が起れば解決の方法がない。」



「だが問題はこれだけでない。この社会は元来はスペイン人・混血児・現地人でなる階層社会であり、日本のような、純粋培養同一民族社会ではない。そしてそれらに基づく一種の常識の差は、時にはとんでもない事件を起こす。


南方総軍司令官寺内元帥が司令部とともにマニラに移駐して来た時、胴元帥はオープンカーで市内を行進した。それを見たフィリピン人が「あの顔を見るとどうもドイツ人の血が混じっているらしい。そうでしょ。ドイツ人は戦争がうまいから、あの人を雇って軍司令官にしたんでしょ」と何気なく日本人に話しかけ撲り倒されたという話があった。(略)



一方にとっては「混血児が元帥」は「天皇の軍隊」への侮辱だが、一方にとっては、戦争とは元来その程度のことdふぇ、戦争がうまいドイツ人との混血児が司令官になって当たり前のことである。」



「他の例は除く。確かにこれらは、今でもどうにもならない問題かも知れぬ。だが一国を占領して統治しようというなら、その国の基本的経済機構と、社会組織の実態や男女関係の基本ぐらいは予め徹底的に調べて、それに対策を立てておくのが常識だったであろう。(略)



それらの何も知らぬ兵団の兵士が、誤解に誤解が累積した錯覚の連鎖の中で、ただ、あがきにあがいておかした多くの罪過の責任は、彼らの個人個人だけにあるとは、私は思わない。
そしてわれわれは、文字通りに「石をもって追われて」この国を去った。だれもついて来るはずはあるまい。」




「日清・日露の勝利と誇らしげに言う。だが当時の清朝は長髪賊の乱以後の清朝、日本と清朝の戦いを中国人は第三者的に眺めている。日露となればこの関係はさらにはっきりしている。


従ってこれらの場合は、相手の戦闘力を破砕すればそれで万事終了であり、そのことと、「ロシア本土でロシア軍と戦う」こととは全く別である。いわばお互いに土俵を借りて戦っているのであり、この場合には、相手を倒した瞬間に観客が総立ちになって自分に向ってくることはない。


だが一国の占領とは、これとは全く別のことなのだ。中国との戦争の苦い苦い体験は
それを日本人に教えたはずなのに_だが迷妄は簡単には醒めない、昔も今も。



このことは緒戦当時の対比作戦の跡をたどれば、誰の目にも明らかである。バターンの戦闘が終わり、在比米一個師団を主力とする比島軍数個師団が降伏し、その戦力が破砕されると、日本軍はすぐさま主力をジャワに転用した。残されたのは約二個師団、三万人。



だが七千の島々を含む全比島に、警視庁機動隊より少人数の兵員を残して、何の意味があるのであろう。
だがそのうえ日本軍はきわめて”人道的”な措置をとった。すなわち十五万五千人の比島人捕虜をすぐさま釈放し、残した一部も十八年十月の”独立”の際に全部釈放した。



だがその時にも、山岳州の米比軍一一四連隊はそのまま残っており、彼らの多くはそれに合流した。そしてこの連隊は米軍再上陸までがんばりつづけている。



この処置の背後にあるものは、「戦闘は終わったから戦争は終わった、われわれはアジアを解放に来たのだから、全員が双手をあげて歓迎し、心から協力してくれるはずだ」という、一方的な思い込みであろう。



だが本当にそう信じているなら、二個師団を残さず、全部撤退して全てを比島政府にあせ、文官の”弁務官”を置いておけばよいはずである。そして、この政府に日米間の中立を表明させ、比島全域を戦闘区域から除外しておけば、これは歴史に残る「大政略」であり、おそらくわれわれは、変わらざる友邦を獲得できたであろうし、又兵力の転用集中においても有用であったろう。これはいわばイギリス式行き方である。(略)



しかし、その決断は、「成規類聚」の権威(?)東条首相にできることではなかったし、また形を変えた似た状況の場合、いまの政治家にできるかと問われれば、できないと思うと答えざるを得ない。


日本には総合的な政戦略が基本だという発想は無かったし、またそれを立案する者も、その案を基に決断を下す者もいなかった。今もいないのであろう。


また徹底的に比島を制圧するつもりなら、それは、スターリンが東欧で行ったような方法しかなかったであろう。「従兄弟集団」で動く混血階層社会を徹底的に分断寸断し、恐怖と懐柔を併用し、KGB収容所群島を創設し、一切の情報を遮断して鉄の規律に基づく徹底的教育を行い、「名親を日本軍に密告するのは立派な事だ」と子供に信じ込ますまで徹底すれば、事態はまた別かも知れない。しかしそれは日本人にとって結局、「言うだけで行えない」ことなのである。


第一、それを正しいと信ずる哲学も伝統も、またそういう戦い方をした宗教戦争と言う歴史も、また各自が心底から絶対化しうるイデオロギーもわれわれにはない。そして自分も信じていないことを、人に信じさせることはできないし、また相手の社会機構を完全に知り尽して、その弱点をつかない限り、この方法は不可能である。



”自転”する自軍の組織にさえ介入できない日本人に、どうしてそんなことができよう。
日本軍のやり方は、結局、一言でいえば「どっちつかずの中途半端」であった。それはわずかな財産にしがみついて全てを失うケチな男に似ていた。中途半端は、相手を大きく傷つけ、自らも大きく傷つき、得るところは何もない。


結局中途半端な者には戦争の能力はないのだ。


われわれは、前述のように、「戦争体験」も「占領統治体験」もなく、異民族併存社会・混血社会というのも知らなかったし、今も知らない。
知らないなら「無能」なのが当たり前であろう。そして「戦争や占領統治に無能」であることを何で恥じる必要があるであろう。


そして戦争に有能な民族を、何で羨望する必要があるであろう。なんでその「中途半端なまね」をする必要があるであろう、ないではないか。われわれにはわれわれの生き方がある。


それを探求し、合理化し、世界の他の民族の生き方と対比し、相互理解の接点をどこに求めれば良いかを、自分で探求すればそれで十分ではないか。




三十年前われわれは東アジア全域から撤退した。軍事的再進出の可能性を主張する声は「日本軍国主義復活」の掛け声に唱和する声が消えるとともに消えた。だが経済的進出はおそらくまだ続くであろう。


もちろんいずれも進出の時もあれば撤退の時もある。撤退は撤退で良い。問題はその撤退のあとをその地の人々が追うか、あるいは石をもて追われるかの違いだけであろう。」


〇 「日本人に戦争は無理だ。そういうタイプの民族ではない。」というふうに、「自分を知っている」というのは、とても大事だと思います。山本氏は、そのことを具体的な体験を語ることで、知らせてくれていると思います。

この国の政治家に戦争は無理です。
そして、この国の人間が原発を扱うのも無理です。
現実や真実をしっかり見て対処する能力に欠けているからです。


現在、経済的理由で「移民」を大勢受け入れることになりました。既に沢山の外国人労働者が日本国による「酷い扱い」で、行方不明になっているという報道があります。

移民を受け入れるなら、規範や価値観も「世界基準」に倣うものにしなければならないと思います。あらゆる人を人として大切に扱うという基準に。

それが出来ず、日本独自のやりかたでやる、というのなら、移民は受け入れず、縮小した経済でこじんまりと貧しくても穏やかに暮らすという国を目指すしかないと思います。

「中途半端は人を傷つけ、自分も傷つき、何も得るところがなく、全てを失う」
その教訓を肝に銘じるべきだと思います。
今、それがとても心配です。