読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(石の雨と花の雨)

「「週刊朝日」49年2月1日号の、森本哲郎氏と田中前首相令嬢、田中真紀子さんの対談の中に、次の会話がある。

森本哲郎   こんどの五カ国訪問旅行の感想を、ひとことで言うとすれば、どういうことになりますか。

田中真紀子  東南アジアと申しましても、みんな違いますので、それを一括して、あのへんはどうだとか、アジアはひとつだとか言えませんね。


森本  絶対に言えませんよ。日本人はすぐ、アジアはひとつだなんて言いたがるけど、ぼくはあの言葉が日本人のアジア観を誤らせてきたと思います。……

この会話の結論は一言でいえば、「日本で言われるアジアなるものはない」ということであろう。「アジアはない」、そう、確かに「アジアはない」。私は、戦後三十年たって、活字になった「アジアはない」という言葉に、やっと巡り会えた。



そしてこれを読んだ時、何やらほっとした安堵感とともに、二人にお礼を言いたいような気持になった。だが、この言葉は、誰にも注目されず、消えてしまったように思われる。そして相変わらず横行しているのが、「アメリカはアジアの心を知らなかった」といったような言葉である。(略)



三十年前、何百万という人が、入れかわり立ちかわり、東アジアの各地へ行った。私もその一人だった。そして現地で会った人々が、自分のもっているアジア人という概念に適合しなかったとき、



「こりゃ、われわれの”見ずして思い込んでいるアジア人という概念”が誤っているのではないか、否、この広大なユーラシア大陸の大部分を占める地に、「アジアといった共通の像”があると一方的に決めてしまうのは誤りで、単なる一人よがりの思い込みではなかったのか?」
と反省することが出来たなら、日本の犯した過ちはもっと軽いものであったろう。


われわれは、否、少なくとも私は、残念ながら当初は、そういう考え方・見方が出来なかった。そして、自己の概念に適合しない相手を見た時、多くの人と同じように私も、いとも簡単に言ってのけた。「ピリ公なんざぁアジア人じゃネェ」。ピリ公とはフィリピン人への蔑称である。そして、アジアの各地で、実に多くの人がこれと似た言葉を口にしていたことを、戦後に知った。



これはどういうことであろうか。自己の概念に適合しなければ、自己の同胞をすら、「非国民め」と村八分にする精神構造から出た「非アジア人め」という相手を拒否する言葉だと思うが、一体なぜわれわれは、こういう場合、自己の持っている”アジアと言う概念”の方を妄想と思えないのであろうか。(略)



海兵隊によるベトナムからの米人引き揚げ作戦の報道は私を憂鬱にした。何万という難民がそのあとについて脱出していくが、石を投げる者はいない。


その記事の一つ一つは、しまいには、読むのが苦痛になった。形は変わるが三十年前我々も比島から撤退した。だれか、われわれの後について来たであろうか。もちろん事情は違う。



私は言うのは本当について来てほしいということではない。だれかが、「日本軍のあとについて脱出したい、しかしそれは現実にはできない」と内心で思ってくれたであろうか、ということである。もちろん何事にも例外はある。



しかしわれわれは、アメリカ軍と違って、字義通りに「石をもって追われた」のであった。人間は失意の時に、国家・民族はその敗退のときに、虚飾なき姿を露呈してしまうのなら、自己の体験と彼らの敗退ぶりとの対比は、まるでわれわれの弱点が遠慮なく、抉り出されるようで苦しかった。



そしてその苦痛をだれも感じていないらしいのが不思議であった。というのはそれは三十年前の、マニラ埠頭の罵声と石の雨を、昨日のことのように私に思い出させたからである。



私も同じ体験を記したことがあるが、ここではまずその時点の正確な記述である故小松真一氏の「慮人日記」から、引用させていただこう。



「……「バカ野郎」「ドロボー」「コラー」「コノヤロウ」「人殺し」「イカホ・パッチョン(お前なんぞ死んじまえ)」憎悪に満ちた表情で罵り、首を切るまねをしたり、石を投げ、木切れが飛んでくる。パチンコさえ打って来る。隣の人の頭に石が当たり、血が出た……」

これは二十一年四月、戦後八カ月目の記録であり、従って投石・罵声にもやや落ち着きがあるが、これが二十年九月ごろだと、異様な憎悪の熱気のようなものが群衆の中に充満しており、その中を引かれて行くと、今にも左右から全員が殺到して来て、八つ裂きのリンチにあうのではないかと思われるほどであった。



だが、サイゴンの市民は、「アジアの心を知らない」米軍に、一個でも、石を投げたであろうか。



護送の米兵の威嚇射撃のおかげで、われわれはリンチを免れた。考えてみれば、われわれは「護送」において常にここまではしていない。内地でも重傷を負ったB29搭乗員捕虜を、軍が住民のリンチに委ねた例がある。だが、私とて、もし「親のカタキだ、一回でよいから撲らせてくれ」などと言われたら、威嚇射撃でこれに答えることは、できそうもない。



だがこの一回が恐るべき状態への導火線になりうる。そしてこれが、後述する日本的中途半端なのである。」



「戦争末期、特にレイテ戦の後で、小舟艇でレイテを脱出して付近の島に流れ着いた、戦闘能力なき日本軍小部隊への集団リンチの記録は、すさまじい。
これらについては、もちろん日本側には一切資料はなく、戦争直後に、比島の新聞・週刊誌等に挿絵入りで連載された「日本軍殲滅記」から推定する以外にない。(略)



ベトナムの記録を調べても、このように悲惨な、「米兵落ち武者狩りの記録」といったものはない。では、彼らが人道的民族でわれわれが残虐民族だったからか。この図式は、戦争直後は断固たる「神話」であったが、今では「米軍人道主義軍隊神話」など、信ずる人はいるまい。



では何からこの差が出るのか。「いやそれは違う、この二つを対比することは土台無理な話だ……」という反論は当然に出るであろう。私自身かつて、一心にこの反論をやったのだから。もちろんその時はまだベトナムはなかった。従って題材はバターンであり、それが論じられた場所は、戦犯容疑者収容所であった。



憎悪と投石と罵声の雨の中で、人は平静でいられるであろうか。不思議なほど平静で、彼らの表情とゼスチュアも、奇妙にはっきりと目に入る。小松氏もそう記している。だがこれは平静というより空虚と言うべき状態であろう。心の中は完全な空洞になり、それがまるで筒のようになって、自分を支え、一見、毅然とも思える姿勢をとらせているが、心には何一つない、と言う状態である。


そしてその筒は、硬直した無視と蔑視で出来ており、安全地帯でホッとした時、その筒が微塵にくだけてがっくりする。と同時に、くだけた筒に火がついたように、煮えたぎる憎悪がむらむらと全身に広がっていく。そしてそれが一応落ち着くと、奇妙な諦念と侮蔑にかわる。



私があの問題を取り上げたのは、ちょうどそういう心理状態のときだった。そしてその背後にあるのは「ピリ公なんざぁアジア人じゃネェ」という、「アジアという妄想」に基づく、抜き難い偏見であった。



「どうせやつらは、そういう民族なんだ。骨の髄まで植民地根性がしみこんでやがる。敗者には石を投げ、勝者には土下座する。確かに我々は敗れたさ、だが、やつらにゃ敗れる能力もないくせしやがって、そういうやつらなんだ、石しか投げられないのは……」
呪詛のようにこういう言葉が延々と続く。まるで自分の創口をなめるように。(略)


「違いますぜ、そりゃあ_」。収容所で、私の斜め前のカンバスベッドから、Sさんが言った。(略)
殆ど口をきかず、口を出さず、何か言う時は呟くように言う。温和そのものの人だが、その目には一種の冷たさがあった。



その彼が不意に言った。「違いますぜ、バターンの時は違いましたぜ」。私は驚いて彼の顔を見た。当時「バターン」は禁句だった。バターンの死の行進に、何らかの形でタッチしたなどとは、絶対だれも言わなかったし、ききもしなかった。



彼は、一兵卒から叩き上げた老憲兵大尉であり、あの行進のとき米軍の捕虜を護送した一人であった。彼は言った。あの行進のことはだれも絶対に口にしない。だからあなたは何も知らないだろう。


石の雨ではない花の雨が降ったのだ。沿道には人々がむらがり、花を投げ、タバコを差し出し、乾いた者には水を飲ませ_それがどこまでも続く。追い払っても追い払ってもむだだった。



「全く、あたまに来ましたよ、あれにゃ。でもわかるでしょ。彼らだって別に、いつも敗者に石を投げ、勝者に土下座するわけじゃありませんぜ」
では一体なぜ彼らには花を、われわれには石を_、彼らはマッカーサーの「アイ・シャル・リターン」を先取りしたのであろうか。そうではない。(略)



では一体なぜか。(略)
しかし少し調べれば、自分の呪詛が、結局自己を語っているにすぎないこと、言い換えれば、自らの尺度で相手を計っているにすぎないことに気がついたはずだ。というのは、その時点では、フィリピン人ゲリラが、比島解放の”英雄”だったはずだ。だがその時でも、彼らはこの”英雄”を「勝てば官軍”とあがめていない。ゲリラのうちフィリピン人に残酷なことをしたものを、その勝利の暁に堂々と裁判に付している。


一方対日協力者は、対日協力者であったという理由だけで処刑はしていない。従って比島には、厳密な意味での”戦犯”はいない。それが一見きわめて感情過多に見える彼らが、あの戦争直後の集団ヒステリー的状態の中で行ったことなのである.


このことは、彼らには彼らの哲学とそれに基づく規範があり、それがわれわれとは別種のものであることを物語っている。従って花を投げるにも石を投げるのも、彼らには彼らの規準があったのである。」



「われわれは、今の人以上に、比島については知っていた。ホセ・リサールやアギナルドの名は、今の「ホーおじさん」ほどではないにしろ、植民地独立闘争の英雄としてよく知られており、少年向きの伝記まで出ていた。



従って、一八八八年(明治二十一年)ホセ・リーサルがイスパノ・フィリピノ連盟を組織し、九二年フィリピン連盟を創立、九六年に処刑され、同年にアギナルドが比島独立宣言を発する、しかし新総督の懐柔政策に敗れて香港に亡命する。



そして米西戦争勃発と同時に米軍を背景に独立軍の指揮をとり、九八年フリピン共和国を樹立する、しかしパリ条約でフィリピンは米領となったので、全島にわたる激烈な反米闘争を展開する、しかしこれに行き詰った彼は、将来の独立の約束のもとに降伏し、引退した。と言った程度のことは、断片的にはだれでも知っていたと言ってよい。



また比島の各市町村の役場には、それに面した教会の前にマリア像が、市役所の前には国父ホセ・リーサルの像が立てられていることも知っていた。だが、当時の新聞、雑誌に描かれたそれらの像は、結局”アジアという妄想”のフィルターを通して、それに適合するように変形され、彼らの姿はまるで、「スペイン名を名乗る維新の志士」のようであって、結局、アジアという妄想に具体性を持たせる役割しか演じていなかった。


そして人々はそれしか知らず、それをフィリピンと信じ、現地に行ってそのイメージに適合しない事態にぶつかると、ただ失望し、期待を裏切られて腹を立て、あげくの果ては「ピリ公なんざぁ…」という言葉を吐くだけであった。いわば「何も知らなかった」以下の状態でありながら、何かを知っていると錯覚していたのである。



もちろん私もそうであった。ただほかの人たちと少し違った点があるとすれば、それはフィリピンの大部分がカトリック圏に属していることを知っていたことと、カトリックに対してある程度の常識は持ち合わせていたことであった。



ベトナムカトリック教徒もそうだと聞いたが、彼らはそれを受け入れて既に三百年以上を経ており、それは日本が本格的に朱子学を受け入れたより古く、すでに確固たる民族的伝統を形成している、と言った程度のことは知っていた。とはいえそれも、一つの具体性をもつ「現場の知識」ではありえない。」



「だが、日本軍の「ヘイタイさんはそれどころではない。何も知らず、通訳もいない。そのうえ作戦上の必要とあれば、日本の存在すら知らない山間僻地に行き、外国人に接したこともない人々の民家に分宿し、「華僑との物交で必需品を入手しても紙幣を見たことがない」人から軍票で物資を購入して生活し、そのうえ、情報収集や道案内等で、住民の協力を得なければならない。」





「だが何よりも大きな問題は、日本軍に「アメリカと戦うつもりが全くなかった」と同様に、フィリピンという一国を占領し、実質的にこれを統轄するつもりが全くなかったということである。言うまでもなくこの「つもり」は、「だれも知らぬ対米戦闘法」でのべた意味の「つもり」である。



一国を占領する、それならばまずその国の兵要地誌はもちろん、歴史・伝統・民俗・言語等々を徹底的に調べて、それぞれの専門家を養成しておくのが順序であろう。


たとえ「どろなわ」でも、アメリカの海軍日本語学校のような速成教育機関をつくればまだよい。だが、そういう準備は皆無であり、むしろ「英語教育禁止」という逆行になり、その情況では、タガログ語の専門家などいるはずもなかった。



最近ある雑誌で、ソ連にはタガログ語の専門家がいることを知り、「さすがは…」と感心したが、日本軍では、幹部ですら、タガログ語の存在すら知らなかった。(略)

それでいて参謀本部は、昭和初期から南方方面占領の作戦計画だけは立てており、その際、占領軍が「現地自活」することは、既定の方針だったという。このこと自体が、いかに現地に対して鞭であり、何一つ真剣に調査していなかったかの証拠といえよう。


陸軍は、次章で述べるが、比島の基本的な経済力とその特殊性さえつかんでいなかった。これは全く、正気の沙汰とは思えない。」