読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(地獄の輸送船生活)

「それはいずれの時代でも同じかもしれぬ。渦中に居る者は不思議なほど、大局そのものはわからない。従って今なら「戦史」で一目瞭然のことを知らなくても不思議ではない。しかしそれは、前述のような微細な徴候から全貌の一部が判断できなかった、ということではない。



昭和十九年六月_これもまた六月だったが_といえば、ガダルカナルの撤退からすでに一年四カ月、アッツ玉砕から一年、マキン・タラワ両島も半年前に全滅し、クェゼリン・ルオット両島の守備隊も、四カ月前の二月一日に全滅していた。とはいえ一方では大陸打通作戦が開始され、インパールへの”快進撃”がはじまり、その陥落占領は「時間の問題」といわれ、報道される全般の戦局は何となく一進一退と言う印象でも、大日本帝国の無条件降伏が一カ年余の後に迫っていようとは、だれも予想しないのが実情だった。


そして”自転”する組織の中で、それが”生活”になっている”一歯車”には、この機構が永久機械の如く続くように思われた。_ふっと「我に帰る」ことが時々あっても。



いま考えれば不思議かも知れぬ。しかし人間は習慣の動物、同時に習慣的嗜好の動物である。昨日の如く明日があると、破局の瞬間まで信じている。信ずればすべてはそう見え、そう見るための理屈はどうにでもつく。ガダルカナルやアッツ等の苦戦・撤退・全滅が暗い予兆であったとはいえ、その損害はノモンハン、台児荘、平型間等で受けた打撃と比べれば、確かに微々たるもの。少なくとも軍隊内に居るかぎり、一個大隊の全滅とか、一個師団の大損害は、珍しい事件でないことは知っている。




しかも過去においては、そういう損害を受けつつも満州を保持し、中国の戦線も維持して、一応、優勢は保ち続けていた。多少の損害はあっても、占領した地域は保持し続けたのが、昭和六年以来すでに十二年つづいていた実績であり、人々は何となく、この過去の経験の延長線上に現在と未来を見ていた。それは戦後の人が、何回かの不況に見舞われながら急激に回復した過去の経験から将来を予測しているのと同じ状態であろう。そして私も、その例外ではなかった。



ただ現場にいる者は、「これは何やらおかしいぞ」といった微細な、しかし見方によっては破局的と思える徴候を、一種の感触でつかみうることも事実。私のみならず多くの人が、敗戦の感触をひやりと膚で感じたのは、十九年五月二十九日、門司で輸送船に乗船した時であったろう。」




「軍の輸送船はひどい、まるで地獄船だという話は前にも聞いていた。しかしその実情は聞きしに勝るもので、いかなる奴隷船もどのような強制収容所も、これに比べれば格段に上等である。


前に週刊朝日でも触れたが、人類が作り出した最低最悪の収容所と言われるラーベンスブリュック強制収容所の狂人房も、収容人員一人当たりのスペースでは、陸軍の輸送船よりはるかに”人道的”と言えるのである。



前述の石塚中尉の日記をもう一度ここで引用させて頂こう。「……船中は予想外の混乱也。船艙も三段設備にて、中隊一七六命は三間と二間の狭隘なる場所に入れられ、かつ換気悪いため、上層の奥など呼吸停止するほどの蒸れ方なり。


何故かくまで船舶事情逼迫せるや。われわれとしては初めて輸送能力の低下している事情を知り大いに考えざるべからず。銃後人にもこの実情を見せ、生産力増強の一助にすべきものなるにかかわらず、国民に実情を秘し、盲目的指導を続けていることは疑問なり」。



これ以上の説明は不要であろう。二間に三間は六坪、これを三層のカイコ棚にすると、人間がしゃがんでは入れるスペースは十八坪、言い換えれば、ひざを抱えた市井の人間を、畳二枚に十名ずつ押し込み、その状態がすでに二週間続いているということ、窒息して不思議ではない。



それは一種異様な、名状しがたい状態であり、一たびそこへ入ると、全てが、この世の情景とは思えなくなるほどであった。その中の空気は浮遊する塵埃と湿度で一種異様な濃密さをもち、真っ暗な船艙の通路の、所々に下がっている裸電球迄が、霧に霞んだようにボーッと見え、むーっとする人いきれで、一瞬にして、衣服も身体もべたべたして来る。



簡単に言えば、天井が低くて立てないという点で、また窓もなく光も殆どない鉄の箱だという点で、ラッシュアワーの電車以上のひどさで家畜輸送以下なのである。だが、このような場所に二週間も押し込められたままなら、人間は、窒息か発狂かである。従って耐えられなくなった者は、甲板へ甲板へと出て行く。しかし甲板には、トラックや機材が足の踏み場もないほど積まれ、通路のようなその間隙には、これまた人間がぎっしりつまり、腰を下ろす余地さえなくなる。



一言でいえば、前述したプラットホームである。
そのくねくねした迷路に一列に並んでいる人の先端が、仮設便所であった。便所に辿り着くのが、文字通り「一日仕事」。人間は貨物ではない。貨物なら船艙いっぱいに
つめこめればそれですむ。しかし、人間には排泄がある。貨物船の便所は、当然、その乗組員の数に応ずる数しかない。三千人をつめこめば、三千人用の便所がいる。そのため舷側に木箱のような仮設便所が並び、糞尿は船腹をつたって海に流れ落ちる。



だがその数も十分でないから、便所への長蛇の列が切れ目なくつづき、その結果、糞尿の流れが二十四時間続くから、船自体が糞尿まみれて走っている。天気ならまだよい。しかし門司を出てからほとんど雨。順番が来るまで雨でぐっしょり濡れる。その兵士が、寒さに震えながら船艙におりてくる。濡れた衣服と垢だらけの身体と便臭から発散する異様な臭気とむっとする湿気。それはますます船艙内を耐え難くし、そのため人々は、呼吸を求めて甲板へと出て行き、一寸の余地でも見つければそこを占領して動かない。



「組織の自転」も不可能、軍紀も何もあったものではない。それでも甲板に出られる人数は、せいぜい三分の一の、千人であろう。
こんな異常な事態は船舶司令部の「居眠り訓辞」などで、どうなる状態ではない。


戦局は到底、内地で想像しているような事態ではない。だがそう思わせたのは、船内のこの状況だけではなかった。バシー海峡までなぜ二週間もかかるのか。南へ向かっているのになぜ雨に濡れた兵士が寒がったか。理由は潜水艦を恐れて前頁の航路をとり、しかもジグザグ行進をするからである。(略)



驚いた、「こりゃ、とんでもないことになっている」。すべての者が船内船外のこの実情を膚で感じてそう考えないわけにはいかなかった。




人間は、置かれた実情が余り苦しいと、未来への恐怖を感じなくなる。というのは今の状態に耐えているのが精一杯、「どうでもいい」という形で、それ以外の思考が停止するからである。


ラッシュアワーの電車の中で水の配給・食事の配給・排泄まで行いつつ二週間もたてば、「もし衝突したら…」という恐怖を抱く余裕のある者は、一人もいなくて不思議でない。簡単にいえばそういう状態であろう。従って、それまでに聞かされていた「日本のボロ船は、アメリカ製高性能魚雷二発で十五秒で沈む。三千人のうち助かるのは十二、三名」といった恐ろしい話さえ、実感とはならなかった。」


「太陽が水平線すれすれにまで落ちると、後背部からまともに光をうけた濃紫色の塊が、周囲がすでに薄暗い海と空を背景にぱあーっと金色に光る。それは息を呑むほど美しかった。



船に乗って二週間、ある意味ではすでに、すべてを断念していた。どういう状況が現出しようと、逃れる道はない。そういうとき人は、不思議に静かな、ただ「見る」だけの存在となり、食い入るように、その最後の光の中の対象を見る。息を引き取る時も、おそらく同じであろう。この状態はその後しばしば経験したが、最初の体験である、落日の輝くこの七星岩が、いまも一番強く印象に残っている。(略)




日は沈む、もう消える。今夜雷撃をうければ、二度と日を見ることはない。「日よ、日よ、お願いだ、もう一度あがってくれ。もう一度その輝きを見せてくれ。もう一度見たい、もう一度見たい」私は内心で叫んだ。



言うまでもなくそれは、「今夜が無事にすぎて、明日の太陽が見られますように」という願いだが、不思議にそういう発想にならず、本当に「日よ、もう一度あがってくれ」という感じであった。後にこのことを粕谷軍曹に話すと、彼も内心で同じことを念じていたそうである。


戦後、ミハイル・イリンの著作を訳した時、彼が太陽巨石文化に触れて、要約すると「古代人は科学を知らなかったから、明日も必ず太陽が昇ると信じられないので、”太陽よまた昇ってくれ”と祈るため、巨石の構築物をつくった」と言った意味の文章に突き当たった。(略)



彼らには形成されたいわゆる”思想”にも”科学”にも”文字”にも無関係だったがゆえに、文字通りリアルに生を把握しており、それがわれわれが「断念した時の状態」ときわめて近かったからではないか。



「自分が死んでも太陽は昇る」という考えは、実は「他人が死んでも…」を「自分」と言い換えただけ、自己の死が実感できず、それを他人事のように見ているときにだけいえる言葉である。本当に死が自己の現実になったとき、それは「自分の太陽は二度と昇らない、永久に昇らない」という形でしか、人はそれを捉えることができない



_そこで、「日よ、もう一度昇ってくれ」という願いになり、同時に、沈みゆく太陽に照らされた岩が脳裡にじかに焼き付いてしまう。多くの人が印象深く語る戦場の落日は、おそらく、生の希求のもっとも切実な表現なのであろう。」



「運命はわからない。粕谷軍曹はジャングルで死に、私は生きて帰った。そしてこの船団はまるで奇蹟のように一隻も沈められずにマニラに入港した。前掲の石塚中尉の日記をまた引用させて頂く。



「六月十三日(月)晴。リンガエン湾を夜間通過す。十六時コレヒドール島の傍を通過す。防潜網のためか方位測定しつつ進む間に、戦跡を船中より望見す。二〇時三〇分キャビデ軍港を見つつマニラ沖着。白亜の建物林立し上陸が楽しみなり。



護衛艦の先制攻撃により数度の潜水艦攻撃にも損害を受けず、一隻も損害なしとは殊勲甲なり。(戦後調査するところによれば十九年六月二十二万五千トン撃沈せられ、門司をわが船団より一足先に出発せる高速船団は空母護衛なるにかかわらず敵潜により大損害をうけ、後続船団はまた中国大陸よりするB29の北九州第一回の爆撃隊により損害をうけ、わが船団のみこの間に八ノット(一説には五・五ノット)の低速船団でありながら損害皆無なり)。」


マニラに上陸した時、護衛の駆潜艇の海軍士官も、これを奇蹟だと言った。しかし同時に彼は眉をひそめて、「おそらくどこかがやられるのでしょう」とも言った。(略)



私はそれを読み、今まで全く知らされていなかった実情の一端を知り、そして目の前のマニラを見て、しがらく茫然としていた。東亜解放のため血を流しているはずのわれわれは、実は怨嗟の的であったのだ。



今ならそれが常識であろう。だが今日の常識も後にこれを振り返れば、同じ程度に危険なものかもしれぬ。驚いたのが私だけなら、私だけが無知だったのであろう。だが私よりはるかにまじめに、あの船内ですでにそれを読んでいた石塚中尉は、その日記に次のように記している。


「六月九日(曇後細雨)五時、爆雷攻撃開始、敵潜一撃沈の勝報に接す……比島情報綴りを借りて一読するに建国直後の満州と同様か口に反日匪賊の多いのに驚く。内地では比島は日本占領後平和な国となっていると思っていただけに、思いもよらぬ情報なり……」」