読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(一、軍人は員数を尊ぶべし)その3

「一方われわれはすでに補給ゼロ。一個中隊や二個中隊が左岸に行ったところで、第一、あの広大な左岸地区の、どこをどう歩きまわればよいのか。カガヤン州の対岸だけでルバング島の十倍はある。そこのジャングルから米比軍の”小野田少尉とその部下”を発見することさえ、ワラの山から針を探し出すほど困難なことだろう。



しかも相手は住民と区別がつかない。結局、討伐隊はこの不可能命令に対して員数報告を出す以外にない。すると「員数ではゲリラ、ゼロ」になる。
これが前述の「実数ではある、員数ではない」の例であり、S中尉が口にした「員数」はその意味である。彼らがどういう報告を出したか私は知らない。知っているのは、自らが書いた報告だけである。



そういう報告を出す羽目になったのは、師団の主力が転進した一週間ぐらい後だったと思う。アパリ=ゴンザガ正面の広い陣地には、すでに、歩兵一個大隊、砲兵一個中隊しかいない。文字通り閑散として、どこに人がいるのやらわからないほどであった。




左岸ゲリラの活動はますます活発になって、米軍の上陸への配慮どころではない。私のいた場所は、川幅が三千メートルぐらいあるのだが、ラフ島という広い川中島があって、これがぐっと右岸に寄っている。そのためラフ島までは四百メートルぐらいである。



この島は、長い間、ゲリラと日本軍の間の無人地帯だったが、今では彼らは日中、舟で堂々とここに渡ってきて右岸を掃射し、夕方になると、日本軍の夜襲をさけて左岸に引き上げていく。(略)



ゲリラの地形利用は実にうまい。
残置部隊を指揮する支隊長U少将から、このゲリラを「撃滅スベシ」という命令をうけた。当然であって、少しも不思議でない命令だが、そのときはじめて、残されている砲と人員を調べて驚いた。四門のうち使える砲は一門しかない。他は全部故障である。



しかもこの一門が十二榴(一二五榴弾砲)という珍しい砲で、全員がそれまで、見たことも扱ったこともない砲である。さらに驚いたのはその砲弾である。それが珍しくも、海軍の砲弾のような弾底信管の砲弾で、何弾というのか私にはわからない。おそらく徹甲弾に類するもので、頑丈なトーチカなどを破壊するための砲弾なのであろう。(略)



自分で調べた結果わかったことは、アパリ正面の砲兵一個中隊とは、結局、員数だったということである。どうもおかしいと思ったのは、転進命令が出た時の中隊長たちの動きであった。



というのは、一個中隊がそのまま残ったのではなく、各中隊が一個分隊を残し、この残された四個分隊で臨時に一個中隊を編成し、S老大尉が臨時中隊長、本部からは私が残るということになったからである。




各中隊は、動かない砲、使えない砲、無用の砲弾、そして歩けない病人を捨てて行ったということであった。そして私が残されたのも、結局、結核の既往症があるから、行軍途中で喀血でもされたら足手まといだということと、後述の私の推定通りの理由からたらしい。



員数中隊の実態にはゾーッとした。まさに「ネグロス航空要塞」のアパリ砲兵版である。(略)だが結局私は、面倒なことを支隊長に報告してトラブルを起こすよりも、員数中隊の員数砲弾で、員数砲撃をして員数報告を書くことにした。


それが日本軍の常識であった_このことを表沙汰にしても、今さらどうにもならない、そしてもしこの実情に支隊長閣下が憤激すれば、砲兵隊長の責任問題になりかねない。部隊長には本当に世話になった、あの部隊長の面子はつぶしたくない、きっと、こういう場合「山本ならうまくやってくれる」と思ってオレを残したのだろう、その期待を裏切りうない等々々_これが結局、私の本当の動機であり、従って、憤激するS大尉をなだめさえしたが、それが”組織の自転”と員数主義の基盤であった。



だが私は小松さんと違って、その組織の中で麻痺した一少尉だったから、自分がそうすることをごくあたりまえと考えても、良心の呵責はもちろん、何の違和感もなく、あらたまった決心といった気持ちさえなかった。



もし支隊長に実情をぶちまけようと決心したら(そんなことはありえないが)、それこそ、一晩も二晩も悶々として眠れなかっただろうが_。




この考え方の底にあるものは何だっただろう。それは、今、目前にある小さな「仲間内の摩擦」を避けることを最優先する、という精神状態であろう。戦争中のさまざまな記録を見ると、日本がずるずると落ち込んだ過程に必ず顔を出すのが、この精神状態である。

(つづく)