読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(みずからを片付けた日本軍)

「指揮官に呼ばれ、ジャングル内の部隊本部に駆け込むと同時に私は言った。「決心変更ですか?」「うむ」指揮班長のS中尉はむっとした顔で私を見た。傍らの部隊副官I中尉は、私の方にちらっと視線を向けてから、だれに言うともなく吐き捨てるように言った。


「全くな。これがオヤジなら、オヤジ黙ってろと言えるし、会社なら辞表を叩きつけりゃすむんだが…これじゃ、敵があがってもまだ片づかん、きっと」
三人は黙って立っていた。



私が言った「決心変更ですか?」という言葉は「師団長はまた決心変更したのですか、そのためわれわれは、また、すべてを新規まき直しでやり直さなければならにないのですか」の意味である。(略)



全くやりきれない気がした。参謀が図上で線をひき、前線をこの位置まで下げましょうと師団長に意見具申するのは簡単だし、師団長は鷹揚にうなづけばそれで片づく。



だが、現場はそうはいかない。私は、前にも記したが、原隊の連隊長が、米軍がいとも簡単に陣地変更が出来るのが不思議だ、日本軍には不可能だ、と言った言葉を「なるほど」と思い出した。



そしてそういう実情を知りながら、それがさらに困難な、手足をもがれたに等しいジャングル内で、いとも軽々と移動を命ずる上級指揮官が不思議であった。こんなことをやっていては、兵士はみな、過労で倒れてしまう。なぜそれがわからないのだろう。



こういう命令を不思議と感じたのは私だけではない。前に引用した「慮人日記」にも、「命令には無茶なものがたくさんある。できぬといえば精神が悪いと怒られるので服従するが、実際問題として命令は実行されていない……」とある。(略)



それがしまいに、実質的な命令拒否すなわち面従腹背の不履行になって行った。
納得できない一番大きな点は、上級指揮官の抱く「米軍」像が虚構ではないのか、という疑念である。


そしてその虚構に対処するため命令を出すが、現実bの打撃の前にその虚構が常にぐらぐらとし、ぐらぐらするたびに決心変更し、そのたびに前の命令を取り消すに等しい新しい命令を出しては、われわれを「奔命に疲らせる」状態にしているのではないか、やっていることはすべて「指揮官の気休め」で、結局すべては無駄ではないのか、という疑念である。


日本軍の首脳が「こりゃ大変なことになったs。われわれの米軍像はおそらく虚構で、その実態は、想像もつかぬとんでもない代物だ」と本当に気づいたのは、おそらく、サイパン陥落のときである。ガダルカナルからサイパンまでは一年四カ月ある。



何故この間に実態がつかめなかったのかと人は思うかも知れない。しかし、元来は黒白つけがたい厖大な灰色の対象を、黒か白かに割り切って、その一つの見方が定着した場合には、何か思いもよらぬ事態に接しても、即物的にそれをとらえ、それに基づいてすぐ対象への見方を変えることは、実は、不可能に近いことなのである。


これは現在でも同じであろう。たとえば中国に対してある一つの見方が定着し、ついで、何か思いもよらぬ事態が生じた場合、人々は、それを「今までの見方」の枠内に無理におさめて納得しても、それに基づいて一気に見方を変えることはできまい。



従ってそれへの現実的対処は、あくまでも、今までの「見方の枠内」における処理になる。対ベトナムでも対アメリカでも”文革派排除”でもこれは同じで”新事態”は今までの「見方」の枠内に無理やりにでも押し込まれ、その文脈で理解されてしまう。


人は、否、少なくともわれわれは、常に、さまざまに変化しながらも、土壇場までこれを続けていく民俗らしい。
この一年四カ月、その間私は、兵営から、予備士官学校から、あるいは現地の現場の下級幹部の立場からこの「見方の枠内に無理矢理押し込む状態」を眺めつづけて、常に不思議に思ったのは「ある見方を絶対化するその精神状態」であった。どうしてこうなるのであろうか?



私の母校の教授で、開戦直前に米国留学から帰った人の中には、徹底したアメリカ嫌いは非常に多かった。だがそういう反米的な人たちのアメリカへの「見方」は当然、軍部やそれに同調する”鬼畜米英的アジテーター」とは同じではない。


ところが同じでないと、これは「親米=異端」に色分けされ、従ってその「見方」は無視され、排除される。



また沖縄の八原高級参謀は、開戦の前日まで「ニューヨーク・タイムス」を毎日読んでいた知米家であったそうだが、収容所での「兵隊民話」によると「アメ公の新聞を読んでいるのを見つかって沖縄にとばされた」のだそうである。(略)



サイパンの日本軍がわずか三週間で全滅したこと。米軍の進攻は意外に早く、しかもこれに対処する手段が見つからないこと。それは、今まで頑固に保持してきた絶対化えた「見方」をひっくりかえす事件であった。(略)




だがそれをわれわれが見ると、絶対化された「アッツ型見方」の崩壊に基づく軍首脳部の心理的右往左往としか見えない。それとよく似たものをあげれば、「スターリン批判」後の、対ソ一枚岩的「見方」の崩壊み基づく進歩的文化人や出版社の右往左往ろう。(略)



「見方」が崩壊しては的確な命令も指示も出来るわけがない。そのくせに、否、それゆえに現地軍への批判だけはある。「サイパンでは、将校はあたかも内地であるかの如く、南洋興発の社宅を接収してこれを将校宿舎とし、これより部隊に通勤し……」「戦備は全くなきに等しく、その水際陣地は旧式の塹壕にして、戦闘開始後二十分にして艦砲射撃のため潰滅し……」また「ホランディアにおいては戦闘部隊と飛行場設定隊の連携不備にして…」「レイテの砲兵陣地は海岸に近くかつヤシ樹の掩体なりしため……」等々、それでいて、「ではどうしろと言うのか」という質問への的確な答えはない。



大本営はグラグラし、従って現地軍はグラグラし、師団長はノイローゼになる。それはわれわれの目に否応なしにわかる。わかるから「決心変更ですか?」と私が言っただけで、その意にがすぐ通じてしまう。

この状態は米軍側から見ても、奇妙に見えたらしい。」



「米軍はおそらく洋上で展開し、このアパリ・ゴンザガ間の前面の海を上陸用舟艇でうめつくして、その砂浜に殺到するであろう。それは、いつかは必ず来ることであり、その時期はもう切迫しているはずであった。



それが分かっているなら、なぜ、二十年三月末にもなってから、砲車位置の選定とか観測所の設置などやっているのだ。何をぐずぐずしているのか。一体全体それまで何をやっていたのか_だれでも当然にそう思うであろう。




もしわれわれが全滅してなお大本営が残っていたら、本土決戦用所部隊への「戦訓」飼料で、われわれは、サイパンにまさる徹底的な批判を受けたであろう、というより罵詈訕謗の的になっていたにちがいない。だがおそらくサイパンの部隊も、われわれと同じような目にあっていて、事実は、批判している人たちこそ責任を負わねばならなかったのではないか?



われわれは、全員が、文字通り夜も寝ないで働いていた。末端の一兵士に至るまで、重労働につぐ重労働、その過重な負担は今の人には空想もできまい。だがその労働の成果は、「決心変更」のたびに、次から次へと廃棄されていった。(略)



最初は海岸の砂丘の上に塹壕が掘ってあったそうである。(略)


「これではいかん。サイパンの二の舞になる」で第二案となった。敵を相当深く内陸に引き入れ、艦砲の射程外に戦場を移すという考え方である。(略)



従って第三案となった。すなわちアルカラ・ファイレの線から前進して、歩兵の前線を、水田とジャングルの接際部におき、砲兵の観測所はほぼ同位置の最高地の樹上に置いた。(略)


そこで前線をさらに、ジャングルの前端から八百ないし千めーとるぐらい下げ、陣地を犬歯状につくっておき、ここへ米軍を引き込んでしまう。すると、敵は、誤射・誤爆を恐れて徹底的な砲爆撃が出来なくなる。一方、日本側にとっては軽火器と手榴弾・銃剣の威力が発揮できる近接戦になる。(略)



この案は、一見まことに立派である。本土決戦においてやはり「観砲車撃を避けるため前線を(住民迄まきこんだ)紛戦・混戦状態にもっていく」という案が、軍の首脳によって討議されていたことは戦後に知った。



だが、秀才の作文は結局「作文」であり、気休めは気休めにすぎない。
というのは、米軍は確保した線にしがみつくことはしない。「まずい」と思えばいとも簡単に撤退するし、占領地も放棄する。



進撃=勝利、撤退=敗北とは考えないから、わざわざ「転進」などと言う言葉を創作もしない。
一方、日本軍は勇戦奮闘これを撃退したとほっとする。
だがこのとき、ジャングル内の前線の位置は明確になっている。そこへ上空から予備タンクを落してガソリンをまき散らし、焼夷弾と艦砲を併用すればジャングルは火の海。焼き殺されるか、洞窟・タコツボ内で窒息死する。



これは彼らにとっては、ニューギニアですでに実験済みの方法であり、ナパーム弾の発想は、おそらくこの実験をもとにしている。
だが結局、そういう恐ろしい事態は現出しなかった。もっと奇妙な、もっと恐ろしいことになったのである。



部隊長の”かばん持ち”でラガオからジャングルに入り、数日間その中を歩きまわり、疲れ切って国道沿いの兵器部兼輸送補給の連絡所に戻った時、奇妙な伝言が私を待っていた。




独歩(独立歩兵大隊、実質的には連隊)一八〇のN軍曹が、司令部への連絡の帰りに立ち寄り「絶対秘密じゃゾ、少尉殿だけに伝えてくれ、四水後退はウソじゃ、師団はバレテに転身するゾ。だからな、今のうちにその準備をしておいた方がエエとナ」と。



N軍曹はノモンハンの生き残り、俗にいう「十年兵の古狸」で、司令部でも「顔」らしく、いつも最新の”情報”をもっていた。(略)


だが今度ばかりは信じられなかった。軍隊とは元来デマの巣だが、バレテ峠転進は、デマとしても無価値に思われた。(略)



それは一個師団近い兵員の移動と、このバラバラの長蛇の行進と言う実情が米側に知られないはずはない。左岸のゲリラが5号道路を眺めているだけで、それはわかる。
ではこのバラバラ移動の真最中に敵が「足を濡らさず」アパリに上陸し、一気に背後から襲ったらどうなる。


師団は戦わずして潰滅、同時にバレテ峠の部隊も潰滅する。そんなばかげたことをやる者がはずはない_もう一度言う_これは戦略戦術の問題でなく常識の問題である。(略)



「「勝敗は戦場の常」という言葉は、問題は勝敗より「どんな負け方」をしたかにある、という意味でもあろう。軍隊であれ一国民であれ、負けた時に本性をさらけ出す。相手を驚愕させ、追撃を断念させるみごとな負け方もあれば、「ここでも…不思議に…」と、相手が常に首をひねる「富士川の平家」の連続のような負け方もある。



両者なじではない。しかしいかに首脳部が血迷ったとはいえ、ガソリンはゼロ、軍馬は全滅の現状において、アパリをがらあきにし、何もかも捨て、砲車と弾薬車(百四十四発積載)を人力で約三百キロ引いてバレテ峠まで来いとは言うまい。たとえ無事ついても百四十四発「打ち終わーり」で一切合財終わりではないか。


「だが……」冷たい汗が私の背を流れた。十師団はそれをやらされたのだ。絶対にあり得ないとは言えない。しかし、と私は考え直した。情況はあの時と違う。前述のように、それすらおぼつかない、もしそんなことをするなら「一刻も早く、しかも手っ取り早く一人残らず全滅させてくれ」と米軍に言っているに等しい。



「そんなバカなことが!絶対秘密じゃゾなどともったいをつけて、N軍曹の奴、オレをからかったな」私はそう思った。(略)



バレテ転進は行われた。私はアパリ防衛の後衛として、バレテ出発直前に残留を命ぜられたが、転進の結果はもちろん潰滅だった。師団長が永らく行方不明だったそうだから、統一指揮どころではあるまい。


砲兵隊は、本部はオリオン峠、野砲はイラガン付近、自走砲はツゲガラオ付近と、約百キロの間でバラバラになって壊滅した。


一体これをどう解したらよいのか。以上の事を「戦史」がどう書き、どのような合理的説明を加えているか私は知らない。だがおそらく戦略戦術の問題ではない。この間のことを思い出すたびに、私の頭に浮かぶのは、次の古い箴言だけである。「天その人を滅ぼさんと欲せば、まず彼をして狂わしむ」。



「狂う」!狂うとは何であろうか。私は、不幸な分裂症の女性と隣り合わせで育ったので、その初期の一特徴を知っている_それは自己の「見方」の絶対化・神聖化であり、身方の違う者は排除し、自分の身方に同調する者としか口をきかなくなる、という状態である。そして自分の「見方」にだけ従って、あらゆる問題を片付ける。



そう、たとえ鉄パイプをふるうにしても、確かに何もかも徹底的に片づけている。_他人には乱雑と見えても。



「片付ける」、I副官もこの言葉を口にしたが、これは実に不思議な言葉である。(略)

従ってこの片付けの前提は、先験的な枠にはめられた「絶対的な見方」の基礎をなす心的秩序なのである。
その見方を確立するため対象を虚構化する。しかし実態としての対象は、どうしても「心的秩序」通りに片づかない。すると、「社会の壁は厚かった」などと言って自分の気持ちを片付けるわけだが、軍事行動ではこれが、自分を、自軍を、本当に片づけるう形になってしまう。



ノモンハン末期の小松原兵団長の行動は、すでに作戦行動とはいえず、「自分を片付ける」という形になっている。レイテにもそれと見える現象があり、また数多い「バンザイ突撃」もそれである。



そしてその直前に必ず「今までグラグラして「決心変更」を繰り返したのが誤りであった。もう迷いからは脱却した」と言う形で、出発点の、虚構を絶対化・神聖化した「見方」にもどり、それに基づいて、自己と自軍を片付けてしまう。



これが「土壇場までつづく」と最初に記した理由である。
「片づかない」_これは日本人にとっては地獄なのである。だが、中国人にとっても、ベトナム人にとっても、そしておそらくインド人にもアメリカ人にも地獄ではあるまい_


「賽の河原の石積」という永久に「片づかない」地獄絵図は、日本にしかないものだというから_。



大きくは太平洋戦争も、小さくはアパリ正面も、結局「賽の河原…」でゃなかったか。
各部隊・各兵という石を積み上げては、新情勢に基づく「決心変更」でこれを崩し、また積み上げ、また崩し、また積み上げ、また崩し、その度に消耗を重ね、ついに耐えられなくなって、自らが三途の川にとびこんで自らを「片付ける」という形の_。




N軍曹とは収容所で再会した。古狸らしく生き延びて、収容所でも早速に、何やら役得のある作業についているらしかった。私が彼の予言についてふれたとき、彼は無表情な顔で言った。


「ああせんと片づかんですケンのう。最後はいつもああなりますケン。ノモンハンもああじゃった。ああやらんと、いられんですケン、きっと、エラカ人でも_」


「片づかない」と狂い出して自らを「片付けて」亡びる、それがあの転進の真因だったのだろう。そして、大は大なり、小は小なりに、最後には必ずそうなることを、彼は十年続いた戦場体験で知っていた。



一億玉砕はその総括だったのであろう。が人のことはとやかく言うまい。後述するが、最後の土壇場では、私もこれとよく似た心理状態になっていたから_。」