読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

コモンの再生

「「情理を尽くして語る」態度の欠如

 

祇園精舎の鐘の声」は「盛者必衰の理をあらわす」と言います。どれほど権勢を誇る政治家でもいつかは衰運の秋を迎えます。安倍政権も最終的には政策的な失敗によってというよりは、その「態度の悪さ」で国民的な支持を失ったのだと思います。

 

 

官邸前のデモに取材に行った方たちの話を聞くと、「怒りのあまり」デモに来たという人たちがずいぶん多かったそうです。不出来な法案や不適切な外交については「批判的になる」ことはありますけれど、感情的な「怒り」として表現されることはありません。

 

 

人が本気で怒るのは「人として許せない」という感じがしたときです。今の政権への国民の「怒り」は個別的な出来事に対してというものよりも、それを取り扱うときの政治家や官僚たちの「態度の悪さ」に対するものだと思います。なかなかこちらの立場や言い分を先方にご理解頂けないという場合、僕たちはふつう「情理を尽くして語る」ということをします。できる限りわかりやすく、論理的で、筋の通った話をしようとする。

 

 

でも、今の政権周りの人たちはこの「まことにわかりにくい話」を国民にわかってもらわなければならない立場にありながら、「情理を尽くして語る」という態度をとっていない。むしろ、木で鼻をくくったような無作法な態度に終始し、説明の手間を惜しみ、前後のつじつまの合わない話を平然と垂れ流している。

 

 

それは「そういう態度」をとっても誰からも叱責されない、誰からも処罰されないと思っているからです。たしかに、そういうことが5年間続きました。彼らの経験則は「腰を低くしたら相手がつけ上がる、だから、あくまで自分にはまったく非が鳴く、説明責任もないという態度で押し通した方がいい」と教えています。これまではそうやってうまく行った。だから、今回もそうする、と。(略)」

 

〇 内田氏は「態度の悪さ」と言っていますが、

平然と嘘をつき、ルールを守らず、ズルをする。更にその悪事を隠すためには何でもする。

人として最低です。一般人が、こんな態度をとれば、もうどんな仕事も続けられないと思います。私なら、こんな信用できない人とは、係り合いになりたくありません。

 

ところが、そんな人が総理大臣だというのです。

「情理を尽くして語る」ことで、なんとか国民に説明しようとしても、

犯罪者の言い訳にしかなりません。だから、説明から逃げるしかないのだと思います。

 

 

最初は安倍氏一人の問題かと思っていました。

ところが、菅氏もほとんど変わりませんでした。そして、岸田氏も安倍政権のやり方をしっかり踏襲しています。

安倍氏を護るために、周りの人々や組織全てが、「嘘をつき、ルールを破り、ズルをし、それを隠すためには何でもする」というやり方になっています。

しかも、絶望的なのは、そんなやり方が嫌だと思う真っ当な人は、このような組織の中には、居られないでしょう。

 

そうなると、私たちの国は、愚かな人々(大人の判断が出来ない人)がかじ取りをする国ということになります。この先のことを思うと、心配でたまらなくなります。

 

「(略)北朝鮮が瓦解した場合の最初の問題は難民です。でも、難民は寝る所を提供し、飯が食えれば、とりあえずは落ち着かせることができる。怖いのは軍人です。朝鮮人民軍は現役が120万人、予備役が570万人います。兵器が使える人間、人殺しの訓練をしてきた人間がそれだけいるということです。

 

 

イラクでは、サダム・フセインに忠誠を誓った共和国防衛隊の軍人たちをアメリカが排除したために、彼らはその後 IS(イスラム国)に入ってその主力を形成しました。共和国防衛隊は7万人。朝鮮人民軍は120万人、その中には数万の特殊部隊員がふくまれます。

 

 

テロと謀略の専門家を野放しにした場合の治安リスクの大きさは比較になりません。(略)

ですから、リビアイラクがそうでしたけれど、どんなろくでもない独裁者でも、国内を統治できているだけ、無秩序よりは「まだまし」と考えるべきなのだと思います。

今のところ国際社会もそういう考えのようです。とりあえずは南北が一国二制度へじりじりと向かってゆくプロセスをこまめに支援するというのが、「北朝鮮というリスク」を軽減するさしあたっての一番現実的な解ではないかと僕も思います。(2017年9月29日)」

 

「「大人」が「子ども」のしりぬぐいをする

 

政治的理想の実現をこれまで阻んできたのはその非寛容さだと僕は思います。わずかでも自分の意見に反対する人間、同調しない人間に対して理想を語る人間たちが下す激烈な断罪。それが結果的に「人間が暮らしやすい社会」の実現を遠ざけてきた。

 

僕は別に人間の弱さ、邪悪さを放置しろと言っているわけではありません。そうではなくて、それは処罰や禁圧の対象ではなく、教化と治癒の対象だと申し上げているのです。場合によっては、罰するよりも、抱きしめてあげることによって暴力性や攻撃性は抑制されることがある。

 

 

全員が善良でかつ賢明でなければ回らないような社会は制度設計が間違っています。一定数の「大人」がいて、自分勝手なふるまいをする「子ども」たちの分の「しりぬぐい」をする。それが人間たちの社会の「ふつう」です。一方に身銭を切る人たちがいて、他方にそれに甘える人たちがいる。それは仕方のないことなんです。

 

 

彼らは悪人であるのではありません。たとえ老人であっても、権力者であっても、大富豪であっても、彼らは「子ども」なのです。全員が利己的にふるまっていては共同体は持たないということがまだわかっていないのです。その幼児性は処罰ではなく、教化と治療の対象なのです。

 

 

じゃあ、そのn「身銭を切る人」はどうやって担保するのか、と気色ばむ人がいると思います。おっしゃるとおりです。「大人」の確保を制度的に担保することはできません。(略)

できるのは、「大人」が愉快に、気分良くその「身銭を切る仕事」をしている様子を「子ども」たちに見せることだけです。それを見て「あれ、たのしそうだな」と思った「子ども」たちの中から次の「大人」が出てくるのを待つしかない。(略)

(2017年4月22日)」

 

〇 大人が子どもの尻ぬぐいをする社会については、同感したくなりました。

自分自身のことを振り返って見ても、子どもの部分はたくさんあり、今まで本当にたくさんの人に、その尻拭いをしてもらってきました。

悪意はなくても、結果として悪いことをしてしまったということは、

ありましたし、これからもあると思います。

 

でも、この具体例として、考えてしまったのが、安倍氏のことです。

安倍さんは、子どもだった。だから、平気で嘘をつき、ルール破りをし、それを誤魔化すためにはどんな汚い手も使った。

多分、実際に安倍氏は「子ども」だったのではないかと思います。

それほど、愚かしく見える。

 

でも、その尻拭いを、私たち国民が「大人になって」する、っていうのは、

どうなんだろう?と思います。

 

やはり、ここには、「正しいこと」と「間違っていること」を指摘し、判定する基準がなければならないと思います。それが本来は法や公序良俗の感覚だと思うのですが、その法まで子どもの愚かさで歪めてしまったのが、安倍氏です。

 

厳格に正義を振りかざし、追いつめるやり方が良くない、と内田氏は言います。

でも、正義はきちんとなければならないと思います。

それは、単なる言葉や規則のようなものではなく、もともとは、人の身になって考える想像力の行きついた先にあるものではないかと思います。

 

例えば私は以前、「シーラという子」の本から引用したことがあるのですが、

その後も、このシーンを何度も思い出します。

 

 

「「ピータ、あなたが人から臭いっていわれたらどんな気がする?」
「だって、この子ほんとにすごい臭いんだもん」ピーターは言い返した。
「そういうことをきいているんじゃないわ。人からそういうことをいわれたらどういう気がするってきいてるのよ」」


「「そうね。いい気持ちがする人は誰もいないと思うわ。じゃあこの問題を解決するのにもっといい方法って何かしら?」
「トリイが、誰もいないときに、臭いよってそっといってあげればいいんだよ」ウィリアムがいった。


「そうすればあの子ははずかしい思いをしなくてすむよ」
「臭くないようにすればいいって教えてあげれば」とギレアモー。」

 

〇こんな風に、「あなたが、△△△されたら、どんな気がする?」と自分の問題として考えて想像する「授業」が学校の中でもっともっとあるべきではないかと思います。

そうすれば、「あなたが、殺されたらどんな気がする?」という質問に対し、自分事として想像し、「殺人がなぜ悪いか?」についての答えも出るのではないでしょうか。

 

 

 

「「代わる人」が出てくる制度設計

 

それでも、フランスの場合は、最小限の「公共」は制度的に担保されています。基礎自治体としてコミューンというものが存在するからです。サイズは数十万人から数十人までさまざまですが、コミューンごとに市議会があり、市長がいる。なぜ面積も人口も違う行政単位が同格の基礎自治体になりうるかというと、それがカトリックの教区に基づいているからです。街の真ん中に教会があり、教会の前に広場があり、向かいに市庁舎があるというつくりはどのコミューンにも共通です。性的権威と世俗的権威が向き合っている。権力の古層と権力の新層が目に見えるかたちでそこに拮抗している。

 

 

日本の行政単位にはそのような文化的な支えがありません。明治政府の官僚たちが適当に境界線を引いて作った「机上の空論」だからです。

 

 

幕末に藩なるものは国内に276ありました。これを統廃合して、明治4年に1使3府302県に再編されました。そのわずか4か月後に今度は1使3府72県に縮減され、それでも多いというので、38府県にまで減らされ、明治21年にだいたい今のかたちに落ち着きました。(略)

 

 

 

幕末に「四賢侯」と呼ばれた藩主たちがいました。福井の松平慶永宇和島伊達宗城、土佐の山内容堂、薩摩の島津斉彬です。4人ともすぐに将軍に代わって日本を統治できるだけの実力と見識があった。藩は人材育成システムとしても、リスクヘッジ・システムとしてもきわめてすぐれたものだったということです。だから、明治維新のあと短期間に近代化することが出来たのです。

 

 

今の日本には、コミューンや藩のようなしっかりした自治単位がなく、権限は中央政府に集中しています。だから、中央でどれほど失政が続いても、「代わる人がいない」という理由で30%の国民が内閣を支持している。でも、「代わる人がいない」というのは制度設計が間違っているということです。(略)

 

 

地方自治体は中央政府に対して強い独立性を持つべきだと僕は思います。(略)でも、その目的は何よりも「公共に対する信認」を育てることです。周りの人たちを「同胞」と感じることができ、その人たちのためだったら「身銭を切ってもいい」と思えるような、そういう手触りの温かい共同体はどうやったら立ち上げることが出来るのか。この問いが今ほど切実になったことはありません。(2017年11月1日)」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コモンの再生

〇 内田樹著 「コモンの再生」を読みました。

難しくてわからない部分も多く、私は知らないことがあまりにも

たくさんある、と思い知りながら読みました。

借りて読んだ読んだ本なので、印象に残った所をメモしておきたいと思います。

 

感想は〇で、引用は「 」で記します。

 

「(略)イギリスの福祉制度は戦後すぐから今日まで「ばらまき」と「引き締め」を無原則に繰り返してきました。そこに政策的な一貫性を見ることはできません。でも、一つだけ確かなことがある。それは、この政策的ダッチロールの過程で、生活保護なしでは暮らしていけない最貧困層が差別と排除の対象となり、社会の底辺に吹き溜まり、閉ざされた集団と化したことです。

 

 

 

祖父母の代から3代続いて生活保護受給者というような人たちの場合、彼らの周囲には就労経験のある人がもういません。「働いてお金を稼ぐ」ということの意味がよくわからない。だから、勤労者の常識を知らない。朝決まった時間に起きるとか、見苦しくない服装をするとか、人に会ったら挨拶するとか、そういう基本的なことさえ学習するチャンスがない。

 

 

服装はジャージー、頭はスキンヘッド、全身にタトゥー、朝から酒を飲み、ドラッグをやり、就学せず、10代で子を産んでシングルマザーになる……そういう生活をしている人たちがある地域に集住している。そのような環境で育った子どもにはもう社会的上昇の機会はほとんどありません。

 

 

でも、徒食と怠惰を許さないとして、生活保護を打ち切っても(実際に保守党のキャメロン首相の時代に社会保障費は大幅に削減されました)、彼らの就労意欲を活気づけることはできませんでした(就労したくても、その技能がないのですから)。

 

 

そして、まっさきに社会福祉予算縮減の犠牲になったのは子どもたちでした。親たちに生活力のない家庭の子どもたちの給食や託児所での公的なケアが打ち切られたのです。子どもたちは社会的訓練の機会を奪われるどころか、餓死のリスクにさえさらされることになりました。

 

 

これがイギリスの戦後の福祉をめぐる現状です。社会福祉制度の効果というのは、その恩恵をこうむった世代のさらに子ども世代を見ないと、その成否がわかりません。

戦後の高福祉制度はビートルズストーンズやロンドン・ファッションを作り出した。サッチャリズムは「アンダークラス」を作り出した。でも、高福祉制度は財政破綻をもたらして国民の支持を失い、サッチャーの自己責任論は国民的に圧倒的に支持された。

 

 

英国の有権者たちは自分たちに利益をもたらす政策を嫌い、自分たちをリスクにさらす政策を選好した。「貧困は自己責任だ」と言い放つということにはそれなりの爽快感があるということなのでしょう。そういう人は日本にもたくさんいます。

 

自分自身がいつ貧困の境遇に陥るかわからないにもかかわらず、「貧困は自己責任だ。公費による扶養を許すな」と主張している人がたくさんいる。今の政権与党の支持者たちの多くはそうです。これまでその理由が僕にはよくわかりませんでしたが、「チャヴ」を読んで、「公費で扶養される人間」に対する嫌悪と憎悪というのは、国境を越えて根深いものだということを知りました。(略)

 

 

ベーシック・インカムが制度として成功するかどうかを決めるのは制度そのものの合理性ではありません。その制度を導入する社会そのものがどれほど開放的か、どれほど流動的か、どれほど他者に対して寛容か、どれほど温かいか、それにかかっていると思います。」

 

「(略)

権力者がその権力を誇示する最も効果的な方法は「無意味な作業をさせること」です。合理的な根拠に基づいて、合理的な判断を下し、合理的なタスクを課す機関に対しては誰も畏怖の念も持たないし、おもねることもしません。

 

 

でも、何の合理的根拠もなしに、理不尽な命令を強制し、服従しないと処罰する機関に対して、人々は恐怖を感じるし、つい顔色を窺ってしまう。

 

 

今の日本の権力者たちは他の点では多くの問題を抱えておりますけれど、「マウンティング」技法にには熟達しています。

今回わかったことは、検定制度とは、無意味なクレームをつけて無意味な修正をさせることによって教科書の作成者たちに無力感を与え、権力に反抗することは不可能だということを教え込むための制度だということです。」

 

「抑止力は現に働いている

 

ただし、9条2項と自衛隊の「つじつま合わせ」という複雑なシステムを操作するためには高度な政治技術が必要でした。ですから、そのような複雑な操作ができる「大人の政治家」が日本では久しく国政を担当してきたということです。

 

 

今の改憲論者が主張しているのは、平たく言えば、「大人の政治家がいなくなったので、そういう複雑な操作はもうできなくなりました」ということです。三権分立両院制も「そういう複雑なことはわからないから、話を簡単にしてくれ」と訴えるような人たちですから、改憲論がでてくるのも当然です。

 

 

でも、自分には複雑な政治技術を運用できないから、システムそのものを「自分のレベル」に合わせてほしいというのは、いくらなんでも虫が良すぎるのではないかと僕は思います。

 

 

もちろんシステムが簡単であるというのは一般的には「よいこと」です。でも、「複雑だが今のところうまく機能しているシステム」をあえて廃絶して、「単純な室てむ」に切り替えるという場合、今のシステムで確保できているアドバンテージについては引き続き確保できる保証が必要です。でも、残念ながら「それは保証します」と言ってくれる人は改憲論者にはいません。(略)」

 

〇 自衛隊をどう考えるかについては、私も若かったころには、「違憲」だと

思っていました。ただ年を重ねるにつれ、国防のための軍隊を持たずに主権を主張できるのか等、疑問も生じ、だんだんわからなくなっていきました。

又、天皇制についても、天皇の名のもとに戦争を起こした国が、敗戦後もなおそのシステムを続けているということに、モヤモヤしたものを感じていました。

でも、結果として、なんとか今までは平和にやってこられたわけで、そこには、様々な幸運もあったのでしょうけれど、「大人のやりくり」が働いていたのは確かなのだろうと、思います。

戦争をしない。国民を護る。

裏に原発村や統一教会の存在があったにせよ、少なくとも、その基本を守ろうとした政治家は、居たのだろうと思います。

 

「9条を空洞化するメリットとは?

 

それどころか、安全保障関連法案を強行採決した後、2016年度のスクランブル回数は1168回、堂々の戦後最多を記録しました。スクランブル回数の多さが「抑止力が効いていない証拠」であるという安倍首相の説明を信じるなら、この法整備によって日本の抑止力は大きく減殺されたことになります。でも、これについて納得のゆく説明を僕は政府からもメディアからも、聞いた覚えがありません。

 

 

実践的な問題は安全保障です。抑止力を高めることは国防の必須です。でも、抑止力というものの働きについても、それはどうやって計測するものかも「よくわかっていない」という政治家が、次は抑止力を高めるために改憲すると言っても、僕は簡単に同意することができません。

 

 

僕が首相にお聞きしたいのは、9条を空洞化するとどういう安全保障上のメリットがあると考えているのか、その「メリット」は何をもって考量できると思っているのか、それだけです。(略)

 

 

中国が日本に侵略してくると本気で思っているのなら、それに対応する政策を考えればいい。平時にできる最も効果的な抑止は「日本と軍事的に対立するより、友好的な関係を保ち続ける方が中国にとってメリットがある」という状況を創り出すことです。

 

現に中国と緊密な経済的交流があり、文化交流があり、観光客の行き来がある。ならば、「日本といい関係を保持したい」という中国人の数を一人でも多くしてゆくことこそ「最大の抑止力」ではないでしょうか。

 

北朝鮮のミサイルが飛来すると本気で思っているのなら、まず日本海岸の原発を直ちに停止するのが安全保障上の最優先課題でしょう。でも、そんな様子はない。どうやら国防より「目先の銭金」の方が優先しているように見える。国民の命について真剣に考える習慣のない人たちに安全保障については語ってほしくない。僕が言いたいのは、それだけです。」

 

〇 いちいち全く同感!!と思いながら読みました。

戦争については、「戦争は始まると止められない。だから始めてはいけない。」という話をよく聞きました。今、ウクライナイスラエルの戦争を見ながら、本当に心からそう思います。

9条は単なる理想や夢の話ではなく、まさに苦しみの中で死んでいった多くの人々の命が言葉になっているのだと、最近はそう思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

畏れ入谷の彼女の柘榴

〇 舞上王太郎著 「畏れ入谷の彼女の柘榴」を読みました。

この著作については、ずっと気になっていたのですが、やっと読むことができました。

 

そして読みながら、この作者との出会いを喜びました。

 

もともと、読書量が少なくものの考え方も、かなり狭い。

そんな私が、この作者に出会えたのは、全くの偶然でした。

 

私の場合、読書が苦手というほどではないのですが、

引き付けられない文章は、読み続けることができないのです。

努力して読む、ということが出来ないので、すんなり引き込んでくれる

舞上王太郎には、いつも感謝してしまいます。

 

この物語は、ファンタジーなのか、それともSFものなのか?と思い始めた頃、

話は急展開しました。

 

ここが、なんとも清々しくて、気分がスッキリしました。

すごいなぁ、と思います。

 

感想は〇で、引用文は「 」で、記ます。

 

「千鶴は瞳に穴が空いたみたいに見える程ぽかんとしている。

俺は続ける。

子供ができることはおめでたいことや。自分で作ったならな。でもそうでなかったら全然別の話や。人に押し付けるおめでたが相手に迷惑になるなんて普通にありえるやろ?

 

 

それチヅわかってるはずやろ?ほやかって今、まさしくその例を並べてくれたもんな」

「…………」

「千鶴が親としてふさわしくない、有害やって言うてるのはそういうところや」

「……どういう……」

 

 

 

「わかってるはずのことを自分に都合よくわからんふりするところ。そんでそのわからんふりしていることも誤魔化そうとするところ。誤魔化すために嘘をつくことも平気なところ」

「………!」

追い打ちをかけ続ける。そう決めている。

 

 

 

「さっきチヅ言うたが?「子供の親を軽んじるな」って。俺は親と親であることを決して軽んじてない。敬意を払うからこそ今はっきり言うわ。チヅには親は無理や。向いてないどころの話でない。資格がないわ。

 

 

「悪いところがあったら直すで……」

「直せるところでない。もともとないわ。悪いところって言うても何が悪いかもわからんやろ?」

「……教えてや」

 

 

「いいで?根本や。チヅは命を大事にできんのよ。ほやでいろんな人に気楽におめでた押し付けたりできるんよ。新しく生まれる命の話だけでない。

もうすでにある命のことも全然適当やもんな。(略)」

 

 

 

「わかってないって。まあわかってもらえると思って言うてないけど、チヅにはわからんのや。反省ってのは、何が悪いかわかってからでないとできんことや。それがわからんチヅにはできんって」(略)

 

 

 

「「ちゃんと追い込むって決めてるでな。俺は今回チヅには滅茶滅茶ボロボロになってもらうつもりなんよ」

 

「なんで?」

「言うたやろ? 親として敬意を払ってるんや」

(略)

「びっくりした?自分のことが大事で自分自分優先でやってきたつもりやったんやろ?

違う違う。自分のことが大事な人間は周りのこと大事にするもん。それができるもんや。人のこと大事にできんやつは、誰に嫌われてもどうでもいいと思ってるやつで、それはつまり自分のことどんなに酷い目に遭ってもいいと思っているんよ」

 

 

千鶴がいよいよそこから消えてなくなったみたいにして愕然としている。

千鶴の根幹を潰してしまったのかもしれない。

 

 

ほんの数か月前までは何も問題なく一緒に暮らし、確かに愛していた相手をここまで追いつめるなんて……と俺自身がどこかで悲鳴をあげるけれど、いいんだ、と俺はそれを削ぎ落す。

 

繰り返した通りだ。

親としての敬意を持って、俺はこれをやってるんだ。ここに欺瞞はない。やり込めてスッキリとかも全然ない。

気持ちはひたすら重い。

俺はこの人のことが好きだったのだ。

こんな人のことが好きになっていたのだ。

でもこの人が好きになったおかげで今の全てがある。

 

 

 

「……チヅは、どうなってもどうやっても、何が何でもナオくんの母親や。でも、親としては失格や。それわかるやろ?」

俺は書類を出す。

離婚届。

 

子供の親権の欄は俺が書き込んである。

「これ、書いてくれや。他はいろんなこと、フェアにやるさけ」

 

 

千鶴は動かない。

動けない?それも当然だろう。

でも俺は待つ。

今日終わらせないと、千鶴がまた何をトボけて誤魔化して嘘をついてくるのか

わからない。(略)」

 

 

「真面目な葛藤や計算をこなした後にしても、確かにまあいいや、ままよ、どうにかなるさ、みたいなところがあるかもしれない。それが根本になるからこその迷いだったのかもしれない。

 

が、生きることに軽やかさを持ち込むことと命を軽んじることは違うはずだ。

でもそのことを説明してもわかってもらえないだろうしわかってもらう必要もないから俺も何も言わない。

 

黙った俺を見て千鶴が

「ごめん、忘れて」

と言うけれど、本当にこいつは……としか思えない。(略)」

 

 

 

「でもやらかした罪の償いには全くなっていない。

それにはおそらく何をしても届かない。

現実問題としては、内心において、この世のいろんなことと同様折り合いをつけるしかない。

 

 

 

その上で願う。バカの使った言葉だが、それに頼る他はない。

おめでたい出来事がおめでたいことになりますように。

どのようなバカにも存在意義があって、この世の幸福につながるチャンスがそれなりに

あるんだという俺の祈りが叶いますように。

 

尚登の指はもう光らないし、光らせ方を忘れちゃったと言う。

あああ、あああああああ、そういうことが、たくさん起こりますように。」

 

〇 ファンタジーでもSFでもありませんでした。

この文章…

 

「わかってるはずのことを自分に都合よくわからんふりするところ。そんでそのわからんふりしていることも誤魔化そうとするところ。誤魔化すために嘘をつくことも平気なところ」

 

「…チヅには親は無理や。向いてないどころの話でない。資格がないわ。」

 

これは、まさに今の盛山文科相を評するのにぴったりの言葉です。

更に、もう随分前から、自民党の多くの政治家も同じような態度で、国民に対応しています。

 

「政治家は無理。向いてないところの話ではない。資格がない。」

 

なのに、それをしっかり「追い込む」ジャーナリストや検察官はいない。

国民までも、こんな噓つきで、何が悪いのかもわからない自民党公明党を支持しているのですから、本当に気持ち悪くてしょうがありません。

 

おそらく、この著者には、そんな意図はないのでしょうけれど、私はついそんなことを思いながら、読んでいました。

そして…

 

「…どのようなバカにも存在意義があって、この世の幸福につながるチャンスがそれなりにあるんだという俺の祈りが叶いますように。」

 

私も、心からそう思いました。

わからない人には、わからない。

そういう国民性なのだと思うしかないほどに、絶望的になってしまう。

 

でも、そんな私たちにも、「それなりに幸福につながるチャンスはあるように」と

祈りたいと…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「家族」という名の孤独

「子どもは、親の輝く顔を見たい一心で生きている。そんなふうには見えない子どもでもそうであることは、自分の子ども時代を想い出せばわかるはずなのに、親という役割にとらわれた人は、このことを忘れてしまっている。

 

 

子どもに親の期待を雨あられと浴びせかけ、期待の視線で縛り上げるということが、この少子化時代に普遍的な親の子ども虐待である。(略)

 

 

そんなとき、親にラーメンをぶっかける子は、かけない子よりましなのである。頭にかかった熱いラーメンは、親の頭を冷やすだろう。ここから自然の理にかなった親子関係がはじまるかもしれない。

 

残念なのは、この期に及んでなお、親の「虐待」に逆らえない子が圧倒的に多いことである。そして、こんなのが「健全な親子関係」と呼ばれているからお笑いだ。健全な母たちは子どもに献身することによって子どもたちを追いつめ、夫に献身することによって、男たちを過労死の淵に追い立てている。

 

 

この種の献身は「共依存」である。この概念については第二章でもふれたが、ここでもう一度、その意味を掘り下げてみよう。」

 

 

「(略)

親密な人間関係とは、このような不安と支配欲から解脱した関係である。それは流動的なプロセス(過程)であって、共依存のように恒常性を持った状態ではない。親密性が制度や組織というものと相性が悪いのは、一つはそのためである。(略)」

 

 

 

共依存と親密性の外見が似ているのは、共依存者が偽の親密性を装う名人だからである。共依存者の利他主義は、実は記述のような自己中心性から発するという矛盾を抱えているのだが、われわれの文化は共依存的な権力使用を親密性の衣装のもとに覆い隠そうとする企みに満ちている。

 

 

共依存者は親密でない人の前ではニコニコ仮面を被って、親密な関係を装う。そして真に自分が

関わりたいと思う人には抑うつ的な自己を表現し、深いため息をつく。(略)」

 

 

「ある程度、男性に従っていかれる人、男性をたてられる人、自分はバカなんだと思える人でないと、とても結婚生活に耐えられないでしょう。私のように何の取り柄もない女は、結婚してもどうにかやっていけるでしょうけれど」

とその女性はある文集に書いた。

三人の男の子を育てながら、夫の実父母と同居して世話してきたという専業主婦である。(略)」

 

 

 

「ロボットのように機能的な良妻賢母は、このようにして息子を殺した。はたから見ると冷酷無残に見えるかもしれないが、この母はやさしい母である。自分が犯罪者になるのもいとわず、彼女は息子の将来の人生を神のように判定し、これを絶つことによって息子の苦衷を救ったのだから。自分の人生に侵入され、将来を勝手に断たれたほうはたまったものではないが。」

 

 

「この有名な事件を取材対象とした本に、「仮面の家」(共同通信社)というのがある。著者の横川和夫氏は共同通信社の記者で、以前から取材を介して面識があった。(略)」

 

 

 

「弁護士さんの冒頭陳述を聞いておりまして、ああ、私の知らないところで、ずいぶん長いあいだ、妻は苦しんでいたんだなあ、と感じました」

と息子を殺害した父親は言った。「殺さなければならない」と考えたわりには、この男性は息子に接していなかったわけである。

 

 

息子殺しを提案するほどに妻が悩んでいると知ったなら、なぜ妻に代わって息子に終日向き合うことをしなかったのだろう。

現にそのようにした男たちを、私は何人も知っている。仕事なんかしている場合ではなかったのだが、この男は息子殺しの当日まで、職場に出かけていた。(略)

 

 

 

仕事三昧に生きて、その余のことを念頭に置かないでいることを、仕事依存という。日本の中年男たちのほとんどが仕事依存者であるという意味では、この男も「健全な」生活をしていたわけである。(略)」

 

 

 

 

 

 

 

「家族」という名の孤独

「同世代のグループが欲しいから、学校みたいなところへ行きたいというのなら、そうしたところを用意すればいい。フリースクールでもオルターナティブ・スクールでも結構ではないか。

 

 

ただし、どんなにフリーであろうと、オルターナティブであろうと、それがグループである以上、そして、思春期が思春期である以上、そこには過酷な競争が待っている。(略)」

 

「したがって精神療法の仕事とは、主体の症状を要求に転換する過程ということができる。

怠学、非行、薬物乱用など青春期の男女にありがちな逸脱行動の一部は要求であり、愁訴であり、ある部分は症状である。これらが一つの問題行動に混在しており、しかも明確な要求と見えたものが実は症状であったりするのが、この領域の精神障害の特徴なのである。(略)」

 

 

「こうした一連の過程の中で、乱用生徒の口からは「助けて」の言葉は出てこない。口をついて出るのは、反抗的な強がりと「金をくれ」、「ほっといてくれ」などの要求だけである。口で「助けて」が言えるような子なら、薬物乱用などという危険で面倒なルートへと迷い込むこともないのである。」

 

 

「今のところ、精神科医も精神療法家も彼女と言葉を交わせない。母親には、赤ん坊として甘えるだけ。E子が年齢相応の精神機能を表現する相手は唯一、シンナー乱用の仲間だけである。

 

小学校五年のとき、あれほどに級友と担任教師へのコミュニケーションを求めて手紙を書き続けた少女の現在が、これである。」

 

 

「私がそういう立場にいるせいなのだろうか、こうした形の学校不適応にたびたび出くわす。活発で口が達者な子、清潔そうで利発げな子、そして子どもを大切にする家の子が増えるに従って、その逆の印象を与えてしまう少数の子どもたちがクラスから疎外されていっているような印象を受ける。」

 

 

 

「今の時代の子どもたちにとって、学校でうまくやっていけないとなると、話は深刻だ。彼らにとって学校以外の日常がないのだから、学校が駄目なら日中を生きて過ごす場所がないからである。

 

こういうふうにしてしまったのは、教師を含めた大人たちである。すべての子どもが公的に制度化された学校で、一律の教育を受けながら日中を過ごすように定められていて、そのことの是非を疑ってかかることもしないようになってから、学校生活を除いた子どもたちの生活は、極めて貧弱なものになってしまった。

 

 

学校でしくじって学校嫌いになった子どもは、今や病気を自称して日中を寝て過ごすか、犯罪者のように「摘発」を恐れながら世間の目を逃れて暮らすしかない。こうした「学校嫌い犯罪」を犯すことの恐怖にかられながら、今の子どもたちは必死で学校へ通っているように思われる。

 

学校はそれ自体、子どもたちにとって最大のストレスであるという現実を、われわれはもう少し受け入れた方がよいのではないか。学校という共同社会が子どもたちにとってストレスであり続けるのは仕方がないとして、ストレスを限度以内に押さえる方向への努力が大人たちに要請されているのではないだろうか。

 

 

現在のような状況が続く限り、ここからは一定数の子どもたちが犠牲の野羊としてドロップアウトしていく。(略)」

 

 

 

「今、学校には行内の人間関係から独立した精神保健の専門家が必要だろう。(略)」

 

 

〇 おそらく大昔にも、「表沙汰」にはならないたくさんの問題があったのではないかと思います。

でも、一時は、「資源のない私たちの国の唯一の資源は人間」と言われていました。

その私たちの国で今、結婚したくない人が増え、子どもを持ちたくない人が増えています。更には、この国の未来には、希望が持てないと、国外で生きることを選択する人の話も聞きます。

 

「頭の良い人々」が「熱心に教育」した結果が、今の状況を作り出しているように

見えてなりません。

何か一番肝心なところで、間違っているような気がしてしまいます。

 

 

 

 

 

 

「家族」という名の孤独

「登校拒否は、登校という形で社会参加を促されている子どもからの「ノー」のメッセージである。

何らかの形で社会に出ることに挫折した子どもが、こんな生活はいやだと自己主張しているのだから、親のほうが「ああ、そうかい」と言えば、子どもは学校へ行く以外の自分の生活を模索するという次の段階へと進むことができる。(略)」

 

 

「実は、ほんの少し前まで、私たちの社会はこうした子どもたちの自己主張を、大した問題とも考えずに受け入れてきた。職人の子どもが学校を嫌って、居職の父親の仕事場で父の手元をじっと見ているとすれば、それを父親が喜んだ時代があった。この登校拒否児は、親孝行者であった。

 

私は東京の下町の育ちだが、小学校の同級生で、そんな形で徐々に学校から離れていった子どもたちを知っている。皆がそのことをそんなに騒がなかったし、彼自身も今では立派な社会人だ。(略)

今や子どもたちは登校と勉強以外の仕事が許されない。(略)」

 

 

「学校に行かないことに関して、こんなに親が半狂乱になるような時代はなかった。よく調べてみれば、これはごく最近になって起こってきたものである。(略)」

 

 

 

「生徒の一部がこれに適応できないのは当たり前のことで、こんな画一的な制度の中にいたくないと思う生徒がまったくいないとしたら、その方が不気味なことである。

登校を「拒否する」「したくない」などと自己主張できる子がいたとしたら、それは今の子どもたちの中で並み以上の子どもで、偉い。偉い者に偉いと言ってやるのは、治療的なことである。

 

 

逆に言うと、私は臨床家として、登校拒否ができない子がいっぱいいることに危機を感じている。(略)」

 

 

 

「おそらく、明治の昔に軍隊をモデルにした公教育の体系がつくられたころから、学校の内部の者たちは、昔の軍人が市民一般を「地方人」と言って蔑視したように、外部の者を峻別し、差別する必要を感じるようになったものだろう。

 

 

三者とはこの場合、地域の保健所である。この保健所では一〇年ほど前から一定の曜日の午後、地域の家族たちのミーティングが開かれていた。もともと地域内の酒害者(アルコール依存症の人)とその家族のために開かれていた。しばらくするうちに家庭内の暴力問題や子どもの非行が取り上げられるようになっていた。

 

 

私は数年前、このケースが持ち込まれてきたころまで毎週このミーティングに座り続けていたのだが、母親はこのことをどこかで聞いたらしく、息子のいじめられ問題をここに持ち込んだ。(略)」

 

 

 

「どこでもそのようだが、中学生になると教室全体が殺伐としてくる。一年生のときから高校進学のことが教師と生徒の頭をしめるということがあるのかもしれないが、それだけではないだろう。思春期というのは、自分の理想を求めて、それに沿わないものにとりわけ残酷になる時期なのだ。(略)」

 

 

 

「私の観察対象になったいじめ・いじめられ関係に話を戻すと、いじめっ子側の主役は、いじめられっ子の保護者を任じながら、やがてその立場に危機感を持つようになった。彼は体力、腕力、知力のいずれの種目でも、級友たちの中で優位には立てない。

 

 

このままで行くと、とろい親友の同類とされ、劣者の烙印を捺されて自身がいじめの対象とされる。

こういう政治的判断ができるだけの才覚を備えていた彼は、親友の保護者という立場を利用して、彼を優位者たちの生贄に差し出した。(略)」

 

 

 

「こんなわけで、学校とくに中学というのは、文字通り危険なところなのである。少なくとも一部の生徒にとっては。困るのは、”一部の生徒”、”生贄”は必ず必要とされるのに、誰がsろえに適しているかは結果が出るまでわからないことである。(略)

 

 

不幸にもこんな立場に置かれたときの、正しい振る舞い方は、危険から逃れることである。それしかない。逃げずに頑張ろうとすると、屈辱が重なって人間の一番大事な部分が破壊されてしまう。自分自身を愛し、尊ぶという、これからの人生のエネルギーの源泉を涸らしてしまうことになる。この種のトラウマ(心的外傷)の恐ろしさは、もう少し知られた方がいい。

 

 

要するに、登校を拒否できる能力が大切だ。この能力を支えるものは勇気と認識力である。これがあれば「僕はいじめられている」と親にはっきり言うことができる。愚かな親(親というものは、よく言われるようにたいてい愚かだ)が、「頑張って登校しろ」と諭しても、はねのけることができる。

 

 

 

そんな勇気や認識力に恵まれていなくても、とにかく学校を休んでしまえ。(略)」

 

 

 

「このいじめられっ子にも、私はこのように言ったのだが、何分彼は自分がそういう”身分”であることを認めてないのだから、なかなか言うことを聞いてもらえなかった。

 

 

ミーティングのあとにもいじめは続いたが、登下校の途中にすれ違いざまにキックを入れたり、殴ったりというものになって、群がっての儀式的な虐待はさすがになくなった。

 

見物層のいじめっ子たちが、自身が加害者と認定される危険を感じて、”場”をっはなれはじめたわけだ。さすがに賢いものである。こういう連中が育って、日本の大衆の中堅となる。(略)」

 

 

「この場合、私に語れたのであって、親や教師にではない。それは当たり前のことで、子どもは親が期待している、「学校で元気に過ごす子」を演じるのに必死だから、何があっても親にだけは言わない。(略)

 

 

教師は当事者で、いじめ側の一方の旗頭だから、こんな者に実態をもらすこと等あり得ない。学校は先に述べたように、評価と順位付けの場である。(略)

教師はそうした場の構成者なのだから、必然的にいじめ側の旗頭なのである。(略)」

 

 

「いじめ・いじめられという精神的虐待劇の観衆たちが、教室のエリートたちであったことも先に述べたが、彼らをエリートにしている価値の構造をけっていしているのは、教師という権力である。(略)

 

 

困ったことに教師たちは今のところ、こうした自分たちの見えない加害者性にきづいていない。言うまでもないが、これは個々の教師が良心的であるか否かとか、教育者としての能力の程度がどうかといったこととは関係ない。

 

 

中学校で教師をやるということは、それ自体いじめ側の片棒を担ぐことだというくらいの厳しい認識を持っていないと、この役割から降りられない。

 

 

だからこそ、教室や学校は、現在のような徹底した閉鎖系を構成してしまっていては危険なのである。いつも第三者の目を入れ、外部の価値観に敏感でいる必要があるのである。(略)」

 

 

 

 

 

 

 

「家族」という名の孤独

「女性は、女性として生まれただけで、「母性本能」なるものを備えていて、自分の子を持ちたがり、子のために自分のすべてを捧げるものであるとの信仰がまかり通っている。

こうした信仰が共有されている社会の中では、母性なるものを実感できない女性は、あたかも自分に大事なものが欠けているように感じて、それを隠そうとしたり、自己嫌悪に陥ったりせざるを得ない。(略)」

 

 

「もう一度繰り返して述べたい。育児に伴って母親は子どもに陰性感情(怒り、憎しみ、嫌悪感)を向けることがある。そしてそれは”当たり前”のことである。」

 

 

児童虐待はなかったのではない。名づけられていなかったのである。ようやく今、高学歴で職業を持った母親たちが、ないとされていたものに名を与え、ついでに自分たちの立場を正確に伝えようとするようになってきたところなのである。」

 

「人間は「本能の壊れた動物である」と言われることがある。ここで本能と呼ばれているのは、生誕前にプログラムされた種に固有の行動のことである。これにしたがって、ニワトリはニワトリのようについばみ、犬は犬のように交尾する。それは”必然性”の支配する世界だが、私たち人間の行動は、こうした必然によって完全に支配されているわけではない。

 

 

人間は、「私」とか「自分」とか「自己」とかと呼ばれる厄介なものを抱えながら、自分の生を組み立てている。したがって私たちの生活は時代により、状況により、そして個人個人により大きく変化し、ときには生命を自ら絶つという、”反自然”なことまでやってのける。(略)」

 

 

 

「こうした複雑な過程を考慮しれば、人間の母親は、”必然的に”子育てに没頭するものだとか、それによって満足しか感じないと考える方が不自然である。彼女は、さまざまな理由で子を産んだのであり、ときには産まざるを得なかったのである。生まれてきた乳児に対しても、さまざまな思いを抱く。普通の母親であれば、子どもは他に例えようもなく可愛いと思っているときが多いだろう。

 

 

しかし一瞬、自分のすべてを吸い取る小悪魔のように感じて憎らしくなることもある。「この邪魔者さえいなければ」と子育て以外のことが出来る自分を夢想している母親はむしろ”普通”の部類に属する。(略)」

 

 

 

「母親になるということは、ぐっすり眠れる夜を失うことを意味する。世の亭主たちは、この苦行を「母の喜び」のように錯覚して、妻にだけ負担させ、申し訳ないとも感じていない。

 

中には子どもの夜泣きがうるさい、何とかしろと妻に苦情をいう馬鹿夫さえいる。ぐずる子どもに脅えた母が、深夜や日曜、病院の小児科を訪れれば、看護婦に注意され、年若い女医に叱責され、今まで経験したこともないような屈辱にさらされることさえある。

 

 

こんなことのすべてが、「喜び」であるはずがない。これは苦行である。疑いようもなく、マザリングは苦行を伴うものである。」

 

〇 私にとっても、母であることは、苦行でした。

でも、私の場合、以前も書きましたが、20歳前後で自分の「酷さ」に癇癪を起し、絶望し、生きる意味のない人間と結論付けたにも関わらず、死ぬこともできず、

キリスト教の「イエスはありのままの私を受け入れて下さる」という言葉に力をもらって、生きようと思ったという経緯がありました。

 

母として、自分がどれほど「酷く」ても、もう今更驚かない、という状況だったので、

この自分でやれることをやるしかない、と思っていました。

そういう意味では、苦行ではあっても、「やれること」が目の前に次々とあり、

ありがたかった、と思っています。

 

子どもたちには、もっといい母親だったら良かったのに、と申し訳ない気持ちにも

なりましたが…。