この最終巻に至って、また一段と心に響く言葉が多くなってきました。
特に、この荀彧と劉 志美の間にある、言葉に出来ないわだかまりについては、
とても身につまされます。
身分とか世間的立場は荀彧の家柄の方が上であるらしい。
でも、劉 志美は荀彧の上司。
荀彧 「ええ。劉州牧。私は相手を見下しながら仕えるのには、慣れてます。
そこに下流出身で、オネエ言葉で五十過ぎの変なおやじという肩書きが
くっついても、別にたいした違いはない。」
あぁ~ この言葉。
なんとなく、わかるなぁと思いました。
例えば…私は介護ヘルパーをしたことがありますが、わがままな利用者さんに、
あれこれ言われ、それでも頭を下げながら、利用者さんの身になって仕事をしま
す。
この時、私は利用者さんに奴隷のように扱われている、なんて感じません。
「見下す」とまでは思いませんが、事情があって、(ご自分の身体的苦痛から)
わがままになっている人が相手なので、腹は立ちません。
それは、相手の問題であって、私の問題ではありません。
でも…
荀彧 「たいした違いはないと思っていましたよ。私の方が上だと、優越感を
持っていられたなら、私は今までの上司と同じように、あなたの副官をしていた
でしょう。完璧に。」
「珍しく、荀彧がやけ気味な言い方をした。そんな自分に嫌気がさしているようにも
見える。」
誰かに責められなくても、自分で自分の咎に気付いている時、
自分で自分の情けなさ、不甲斐なさを自覚する時、
やり切れなくなる。
そしてそのやりきれなさは、自殺したいくらいのやりきれなさ。
あぁ、荀彧はそうだったんだなぁ と思いました。
そして、そんなやりきれなさについて書かれた本って、
(読書家ではないので、たいそうなことは言えないのですが…)
あまり知りません。
↑…と一度は書きました。
でも、一番身につまされたのは、嫉妬とか劣等感とか競争心とか…
そういった類の、自分の「評価」に関する部分ではなかったかと思います。
荀彧と志美は同年齢。
何故人は(…というより私は)こんなにも「評価」ばかり気にするのか…
人の目の評価からは逃れられても、自分自身の評価からは、
逃れられない。どろどろぐずぐず醜く淀んできます。
時々自分で自分に疲れてしまいます。
この荀彧にそんな苦しみが感じられたのです。
だから、きっと私も、以前志美が言ってたように、
生きる死ぬという基準だけで生きていたくなるのかもしれません。
動物のように、ただ生きてるだけの自分で。
「最悪よりはマシだった世界。ガタピシ危うい荷車でも、何とか前に進んできた。
志美はその世界が好きだった。人間らしさを荷車に積んで、重くても捨てずに
引きずれる世界。それがどんなに価値があるか、志美は知っている。
戦いから還ったのに、自殺した友を持つ彼には。」
それでも、人間らしさを捨てずに生きることを願うという志美。
あぁ、好きだなぁと思う。
志美 「―僕はね、荀彧。戦いを考える王だけは絶対に認めないと決めている。
どんなに優れた男だろうがね。それが僕の譲れない一線だ。…略…」
秀麗 「追わない理由になりますか? そのうちのどれか一つでも」
「きっぱりとした言葉と静かな目をしていた。志美は微笑む。
若草のようなその清冽さに。」
う~~ん…かっこいい!
特にこの若草のような清冽さという言葉が、ここにさりげなく出てくると、
色と香りまでが広がる。
「君はもう選んだんだ。こっち側を。向こう側には行けなかった。
そういう人間なんだ。君を踏みとどめたのは、僕じゃない。君の自身の心だ。
いろいろ理屈を並べてたけれど、本当は戦支度の加担に、どうしても
自分の判を押せなかったんだ。許可できなかった。…違うかい」
「だが戦いを知っていようがいまいが、戦いを起こす者は起こすのだ。」
赤い箒星 …… これは、劉輝と旺季の交代を意味するのではなく、
瑠花姫と珠翠の交代を示唆していたのかな。
瑠花 「私はか弱き者の擁護者。…… 略 …… もう眠るがよい、立花。
よく還ってきたの。さあ子守唄を歌うてやる。泣くでない。」
美しい最後だなぁと思いました。