読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ねじまき鳥クロニクル

第1部 泥棒かささぎ編 を読み終わり、とても苦しく、

文字通り寝ても覚めてもあの残虐シーンが頭に浮かび、

包丁を使うと思い出し、なんとか忘れようと、他の本を読んでみたり

していました。

でも、ますます頭の中がそのイメージでいっぱいになって行くので、

ここは、逃げずに続きを読んで別の要素で頭を満たす方が良い、

と思うに至りました。



「私はまだ十六だし、世の中のことをあまりよくは知らないけれど、

でもこれだけは確信をもって断言できるわよ。

もし私がペシミスティックだとしたら、ペシミスティックじゃない世の中の

大人はみんな馬鹿よ」


「何も考えないためには、いろんなことをちょっとずつ考えればいい。

いろんなことをちょっとずつ考えて、そのまま空中に放してしまえば

いいのだ。」


味がわかる人とわからない人というのがいて、

私はわからない人なので、たいていの食べ物にそれほど不満を持ちません。

でも、わかる人は、いちいち些細なことが気になって、

食べ物に満足するということが少ないようです。

その代わり、本当においしいものに出会うとその記憶は

強烈に残り、感動するようです。

わかるのが幸せなのか、わからないのは不幸なのか、私にはよくわかりません。

人の感覚とはそんなもののようで、見える人、感じる人が

本当は幸せなのかどうか、わからなくなります。

想像力も共感も、いっそ無ければその方がずっと楽なのではないか、

と思う時もあります。

先日、子どものことが心配で苦しむ、という出来事がありました。

自立し経済的にも自分でやってる子どもなので、親があれこれ

心配してもしようが無いのですが、でも、やっぱり心配でしばらく

苦しみました。

その苦しみと、この度の「残虐シーン」の苦しみ、苦しみの質が全く

違うので、比較してもしょうがないのですが、でも、同じくらい

苦しいというのは、どういうことなのだろう、と思います。

単なる「フィクション」の中の自分には全く関係のないことで、

なぜ私はこんなにウジウジしてるのか。アホではないか、と思います。

でも、苦しい…

子どもの心配の苦しみの時、私は「死にたい」という気持ちには

なりませんでした。私がしっかりして子どもを支えなければ、と思いました。

それが叶わない時には、死にたくなったかもしれませんが、でも、

その子以外にも子供はいるので、その子たちのためにも、

私はしっかりしなきゃ、と思いました。

でも、この残虐シーンでは、生きてるのが嫌になります。

消えてなくなりたくなります。

もう少し、しっかりと健康で強い神経を持っていたら、

どんなにいいだろうと思います。

でも、今日は「予言する鳥編」をしっかり読み、井戸の底で夢を見て、

電話の女が登場する所まで進みました。

読んでる間は、残虐シーンを思い出さずにすむので、やはり、読み続けるのが

いいのだと思いました。