読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編

綿谷ノボルの寄稿文

「そしてそのようにして樽のたがが一度外れてしまえば、世界は巨大な
(ごたまぜ状態)と化して、かつてそこに存在した自明のものとしての
世界共通精神言語(とりあえずここでは(共通プリンシプル)と呼びたい)は
その昨日を停止するか、あるいあはほとんど停止に近い状態にまで追い込まれて
しまうことだろう。そしてその渾沌から次の世代の(共通プリンシプル)
が再び形づくられるまでには、おそらく多くの人々の予想している以上に
長い精神の危機的なカオスを目前にしているのである。

そして当然のことながらその変動にしたがって、日本の戦後の政治社会構造、
精神構造も根幹から変革を迫られることになる。
多くの分野で状況は白紙に戻され、枠組みの大掛かりな洗い直し、再構築が
始まることだろう― 政治の領域においても、経済の領域においても、文化の領域においてもだ。

そこではこれまで自明のものと思われて誰も懸念を持たなかったことが
もやは自明ではなくなり、あっけなくその正当性を失うことになるだろう。
それはもちろん日本という国家の変貌の好機でもある。しかし皮肉なことに、
そのようなまたとない好機を目の前にしながら、その(洗い直し)の指標として
用いるべき共通プリンシプルを我々は手にしていない。おそらく我々は
その致死的なパラドックスを前にして、呆然として立ちすくむことだろう。
共通プリンシプルの喪失消滅そのものであるという
単純な事実にきづくことによって」 (269p~270p)


綿谷ノボルという嫌な奴の文章ということで、書かれているけれど、

実は、私はこの「ねじまき鳥」を読みながら、

あぁ、村上春樹さんは、まさに、このように考えているんだなぁと

思っていました。

つまり…

「ねじまき鳥がもし本当にいなくなってしまったのだとしたら、
誰かがねじまき鳥の役目を引き受けなくてはならないはずだ。誰かが
かわりに世界のねじを巻かなくてはならない。
そうしないことには、世界のねじはだんだんゆるんでいって、その精妙な
システムもやがては完全に動きを停めてしまうことになる。

でもねじまき鳥が消えてしまったことに気がついている人間は、
僕の他には誰もいないようだった。」


という文章やその他、色々なところから、世界は誰かがねじを巻いて

動かすものではなく、一人ひとりがそれぞれの感覚で動かしているもの、

という主張が感じられたのです。

「でも、どれだけ精密に公平にそれらを熟読しても、僕には綿谷ノボルという
政治家がほんとうにいわんとすることが把握できなかった。
ひとつひとつの論理や主張はそれなりにまともで筋がとおっているのだけれど、それらを総合して結局何がいいたいのだということになると、途方に暮れない
わけにはいかなかった。どれだけ細部をそうごうしても、そこに明確な
全体像が浮かんでこないのだ。まったく。

しかしそれはおそらく彼が明確な結論を持っていないからではないだろうと
僕は思った。彼は明確な結論を持っている。でもそれを隠しているのだ。」


正直に言うと、ここを読み私は私の頭がこの本を理解するだけの

能力を持っていないのだと、思いました。

なぜなら、私はまさに、この本を読みながらこの村上春樹さんが

それ(明確な結論を持っていながら、それを隠している)をしているように

思えました。

という具合で、まだ最後まで読み終えてはいないのですが、

私には、この本が 何を言おうとしているのか、さっぱりわからず、

面白いけれど、じゃあ、だから何なんだ…という気持ちになってしまうのです。


そういうわけで、次回からは、感想は少し置いておいて、

しばらく、引っかかった部分をピックアップして、

記録しておこうと思います。