読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ねじまき鳥クロニクル

面白いし色々考えさせてくれるし、読みやすいし。

それで、なぜ私はこの村上春樹が好きだ~!って思わないのかについて、

この本を読みながら、ずっと考えていました。

一つ思い当たることがあります。

先ほど抜書きした文章です。


「彼は自分が常に運命の都合どおりに「決断させられている」と感じていた。


それは巧みに「自由意志」のかたちにカモフラージュされていただけなのだ。
それは彼をおとなしく手なずけるための撒き餌のようなものに
すぎなかった。」


「何か大きな力によって動かされている」と感じる人は、

わりに大勢いるのではないか、と思います。

特に「神さま」を信じる人は、

その神さまによって生かされている、導かれている、と感じると思います。

でも、その時、その導きは、「撒き餌」だったり、「カモフラージュ」

されていたりはしません。

「撒き餌」とか「カモフラージュ」という言葉には、

ある種の「敵意」を感じます。少なくとも「思いやり」や「優しさ」は

感じません。

つまり、この大きな力は、自分を守り育てる力ではなく、

騙し、無理強いする力だと、感じられている。

私はそこに共感できないものを感じてしまうのだと思います。


私は、中学の頃、とても暗い性格の子供でした。

ある時、中学生向けの雑誌の付録のようなものに、

リルケの詩が載っていました。「秋」という詩でした。


木の葉が散る,遠くからのように散り落ちる
空で遥かな庭園がすがれてでもいくかのように
否む身振りで 木の葉が落ちる

そして夜には 重い地球の大地が落ちる
すべての星から離れて 孤独の中へ
わたしたち みなが落ちる この手が落ちる
そして他の人びとを見よ 万物に落下がある

そのとおりだが「一人(ひとり)の方(かた)」がいらして
この落下を限りなくやさしく 両の手に受けとめる
                     (小塩節訳)

http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/6e76af6451796b6994f61785b77c294d  ←ここからお借りしました)


この最後の言葉にとても感動し、支えられるような気持ちになったことがあります。

あのオノ・ヨーコさんが、ジョン・レノンと出会った時の

エピソードの中にも、小さな文字で書かれた言葉を、虫眼鏡で見ると、

「yes」と書かれていた、という話がありました。

多分、私はいつもそのような「思想」を求めているのだと思います。

それは、現実にあるとかないとか、日本文化ではどうだとか、

そういうこととは別に、私はそれ無しでは生きられないほどに、

そういう考え方を求めずにいられないタイプの人間なのだと思います。

そして、だからこそ、そのようなものが感じられないこの村上春樹さんが、

イマイチ好きだと思えないのだと思います。