読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ねじまき鳥クロニクル

やはりあの「皮剥ぎボリス」の話が強烈過ぎて、この物語への拒否感が

強いのだと思います。

あと少しだけ、「抜書き」をしてもう終わりにしたいと思います。


「それまで僕の中で凍り付いていたいくつかのものが、
突き崩され、解けていくのが感じられた。様々な記憶や思いや感触が
ひとつになって押し寄せ、僕の中にあった感情のかたまりのようなものを
押し流した。溶けて押し流されたものは、静かに水と混じりあい、僕の身体を
闇の中で淡い幕でやさしく包んだ。

それはそこにあるのだ、と僕は思った。それはそこにあって、僕の手が
差し伸べられるのを待っている。どれだけの時間がかかることになるのかは
わからない。どれだけの力が必要とされるのかもわからない。でも
僕は踏みとどまらなくてはならない。そしてその世界に向けて手を伸ばすための
手だてをみつけなくてはならない。

それが僕のやるべきことなのだ。待つべきときには待たねばならん、
それが本田さんの言ったことだった。」

「それはそこにあるのだ、と。何もかもが僕の手からこぼれ落ちていった
わけではない。何もかもが闇の中に追いやられてしまったわけではないのだ。
底にはまだ何かが、何か温かく美しく貴重なものがちゃんと残されているのだ。
それはそこにあるのだ。僕にはわかる。」

「「かまわない」と僕は小さな、きっぱりとした声でそこにいる誰かに向かって
言った。「これだけはいえる。少なくとも僕には待つべきものがあり、
探し求めるべきものがある」


「白か黒かも定かではない、くねくね曲がりくねった返事なんか
もらっちゃうとね、伝書鳩としても話を噛み砕いて持ってかえるのに
骨が折れるんです。
ところがですね、この世界ではそういうのがまた実に多いんですな。

愚痴を言うわけじゃありませんが、毎日毎日がスフィンクスの謎かけ
みたいなものです。こういう仕事は体によくわいませんよ、岡田さん。」


「でもそれにもかかわらず、それにもかかわらずです、自分がこんな風に
仕事の一部になっていることにたいして、私はぜんぜん悪い気持ちを
もっていません。イワ感みたいなものもべつに感じない。
というよりもむしろ、私はそうやってアリさん的にわきめもふらず働く
ことによって、だんだん「ほんとうの自分」に近づいているような
気さえしちゃうのです。なんというのかな、うまく説明できないけれど、
自分について考えないことでぎゃくに自分の中心に近づいていくという
みたいなところがあるのね。」

「とくにアタマをからっぽにしてベースに髪の毛をせっせと
埋め込んでいるときなんかに、ミャクラクなくそういうのがはっと
よみがえってきます。そうだそうだ、こうだったんだって。
きっと時間というのはABCDと順番に流れていくものじゃなくて、
てきとうにあっちに行ったりこっちに来たりするものなんですね。」

「人々はとくべつな人間にしか聞こえないその鳥の声によって
導かれ、避けがたい破滅へと向かった。そこでは、獣医が終始一貫して
感じ続けていたように、人間の自由意志というものは無力だった。
彼らは人形が背中のねじを巻かれてテーブルの上に置かれた
みたいに選択の余地のない方向にすすまされた。

その鳥の声の聞こえる範囲にいたほとんどの人々が
激しく損なわれ、失われた。」

「私はたとえ思想そのものを信じることができたとしても、その思想や
大義を実行に移す人々や組織をもう信じることが
できませんでした。それは我々日本人が満州でやったことについても同じです。」


「泳ぐことは、僕の人生に起こったもっとも素晴らしい事のひとつだった。
それは僕の抱えた問題を何も解決しなかったけれど、また何もそこなわなかった。
そして何からも損なわれることのないものだった。」

「僕の考えていることが本当に正しいかどうか、僕にはわからない。
でもこの場所にいる僕はそれに勝たなくてはならない。これは僕にとっての
せんそうなのだ。

「今度はどこにも逃げないよ」と僕はクミコに言った。」

「ねじまき鳥さん、何かがあったら大きな声で私を呼びなさいね。
私と、それからアヒルのヒトたちをね」

「「さよなら、笠原メイ」と僕は言った。さよなら、笠原メイ、 僕は
君が何かにしっかりと守られることを祈っている。」


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この「アヒルのヒトたち」の話は、あの「ライ麦畑でつかまえて」の
ヒルを思い出した。