読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ノモンハン事件について

先日読んだ「ねじまき鳥クロニクル」に出てきた、

ノモンハン事件について、以前から知りたいと思っていたので、

たまたま家にあった歴史の本で少し調べてみました。

藤原彰著 「太平洋戦争 (国民の歴史23)」より

「ドイツとの同盟交渉が難航している最中の昭和十四年(1939)5月12日、
満州国と外蒙との国境ノモンハン西南方付近で、外蒙軍数百が越境して
満州国の一部と交戦しこれを撃退したという事件が起こった。」

この本によると、最初は満州国が外蒙軍をハルハ河南岸に駆逐した。

でも、再び外蒙軍がハルハ河北岸に進出。小松原中将は山県武光大佐に

歩兵一大隊、砲兵一中隊、捜索隊を率いて出動させ、5月28日外蒙軍を

攻撃させた。しかし、外蒙軍を打ち破ることはできず、兵力配備は

強化された。

6月19日、関東軍作戦会議において、「国境紛争処理要綱」の起草者

辻参謀が、「徹底的に侵入敵軍を撃破」し「我が北辺の武威を発揮すること」が、

おりからの日英会談をも好転させる道だと強く主張し、それが認められる。

関東軍司令官は、第二十三師団長に、戦車2個連隊、歩兵一個連隊などを増加し、

師団の全力をもってソ連・外蒙軍を攻撃することを命じた。

6月25日、関東軍は攻撃命令を下達。

6月27日、航空部隊をもって、外蒙領奥深くの航空地区タムスクを急襲、

撃退破124機と称する戦果を上げる。

しかし、大本営は軍備充実の時をかせぐため、今すぐ対ソ開戦につながる

挑発的攻撃は避けたいという意向だった。

6月29日、関東軍の越境攻撃を押さえようとし、地上戦闘を国境船内に限定し、

航空進攻を禁じた。

しかし、関東軍はこれに服しなかった。

ノモンハン付近は、地理上日本の有利、ソ連に不利な地点だったため、

ソ連にとって補給困難、後方連絡線の不安な地点でソ連が本気で

大規模な戦闘をやるはずがないという甘い判断があった。

また、一部血気の参謀たちの「威武」を示そうというはやった気持ちが

加わってこの攻勢となった。

7月2日夜、ハルハ河を渡ってソ連外蒙軍の後方を包囲しようとする

第二十三師団の攻撃がはじまった。

しかし、ソ連の優勢な砲兵火力と戦車のため、大損害を受け、北岸に撤退、

河岸から三キロ後方の線で辛うじて持久の態勢で持ちこたえる状況になった。

8月6日、関東軍は内地から重砲部隊の増強を受け、

第六軍を編成、第二十三師団の他に第七師団の半分、砲兵の大部隊、

航空隊の全力をここに集中。

8月20日、ソ連軍、優勢な砲兵、戦車の支援の下、大規模な攻勢に転じる。

激戦は八月末に及び、大二十三師団は軍旗二旒を失い、ほとんど全滅。

8月23日、日本を置き去りにして独ソ間に不可侵条約が締結され、

三国同盟問題は一夜にして雲散した。

「この事件を終始リードしたのは関東軍、とくにその参謀部の向こう見ずな
強がりであった。そしてこの事件をめぐって、中央と関東軍の対立は極限
に達した。それが一万五千の犠牲者となって報われたのである。」


「ドイツの申し入れにはじまり、終始ドイツの主張にふりまわされた
日本の三国同盟問題は、ようやくそれに乗ろうとした段階で、
見事な背負い投げを食わされた格好で終わった。
国際情勢にたいする日本の支配層の立ちおくれは、これ以後いっそう
顕著となるのである。」