読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

精神の生活 上


「生きているということは自分自身が現象するという事実に応答する形で、
自己表示しようとする衝動にとらわれていることを意味している。
生きているものは自分のためにしつらえられた舞台の上の俳優のように、
自分がどう現象する[みられる]かを決めるのである。」

○このことについては、全くその通りだと思うけれど、私たちの社会は、
このことを受け入れて動いていないように思います。

つまり、「生きていることは、舞台の俳優のようにどう見られるかを決めること」
という「本音」を隠して、「心の底からそうしたいと思っているからこうしているのです」と自分でも思い込み(自分で自分を騙し)人にもそう公言しない限り、「自意識過剰」とか「偽善者」とか「裏表のある人」とか言われてしまいます。

このような「本音と建前のズレ」は実はとてもたくさんあるような気がします。

人間は本来○○に作られているのに、その作られ方を無視して(知らずに)、
あるべき姿を自分に押し付け、どうにもうまく生きられない、あるべき姿とは
まるで違う自分の姿に、唖然として自分で自分を責めたり嫌悪感を持ったり、
ということを若い頃は嫌というほど経験しました。

その一つがこの「見られたいように振る舞う」ということです。

このアーレントさんは、サラリと「人間はそういうもの」、と言ってますが、
私の場合は、「本当の私は全然にこやかではない人。でも人に嫌な感じを与えるのは
いやなので、作り笑顔で挨拶する。でもそうしながらも、心の底では、そこまでして人によく思われたいのか、自分って嫌な奴だ」と思う気持ちがありました。

と、いうことは多分、他人を見る時にもそのように、人の笑顔の裏を見て、
「裏表のある信用できない人」という考えがよぎるのだと思います。

自分で自分にうんざりしてきます。
人とうまく関われなくなってきます。

そうなると、「おなかの中が空っぽで、竹を割ったようにまっすぐ」で、
そういうゴチャゴチャが全くない人が一番素敵な人、ということになります。

でも、それって「何も考えない=思考しない」ということではないのでしょうか?
そして、歳をとってわかったのは、そう見えている人も、
実はけっこう色々おなかの中にはあって、それを上手に見せずに
いられる器用な人なのだ、ということです。

もしくは、本当にまったくそういうゴチャゴチャがないとしたら、
逆に本当に何も考えない人で、自分本位の人ということになります。

だからやっぱり、このアーレントさんが言うように、「人は皆舞台の俳優のように
見られたいように装っているのだ」とすっきり認め合って、次のステップに
進んだ方が、ずっと健全だと思います。

「いいかえれば、現象するというのはいつも他人にそう見えるということであるし、
この外見は観察者の立場や視点によって変化する。いいかえれば、現象するものは
どれも現象するということによって一種の仮面をかぶることになる。」

「自己表示したいという衝動、つまり、他からこうだと示されるときの効果が
非常に大きいので自分でも示して応答しようとする衝動は、人間にも動物にも
共通であるように見える。

そして、ちょうど俳優が登場するには舞台や仲間の俳優、
観客を必要とするように、生きたものはどれも自分が
現象するための場として安心して現象できる世界を必要としており、
一緒にやってくれる仲間の生き物も必要だし、
自分の存在を気づいて認めてくれる観客が必要である。」

○ここを読みながら、あの水谷修さんを思い出しました。
たった一人でいる子ども達のそばに寄り添って、仲間になり観客になり
存在を認める人であろうとした。

水谷さんには、人間が必要なものが分かっていたんでしょうね。
多分、水谷さんも欲しかったものだから。