読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

精神の生活 上

「必然性の反対は偶発や偶然ではなくて自由なのである。」

○これがわからない…

 「予告もなしに何十年か前に、きみは自然の深遠から吐き出されて出てきた

  被造物の無限の激しい流れのなかにやってきたのだ。

  それを科学では、偶然の出来事だというのだ。

だからといって我々がこの詩人と一緒にこう答えるのを妨げるわけではない。

  私の存在根拠は偶然なのだ!まったくの奇跡だといってよい。

  なぜって自分がこうある定めにあったと確信を持っていない人がいようか。」

「ところが、カンタベリーのアンセルムスにおいて見られるような、神についての
昔の存在論的証明は妥当性がないしこの意味では真ではないが、きわめて意味
深いものである。」


○欧米では、「神が死んだ」ということが一般的に受け入れられて先に進んでいる
ように見えます。神を信じていた社会で神が死ぬと虚無におちいるしかないのでは?と思います。

でも、様々な制度(民主主義や人権思想や社会福祉制度等)の後ろには、
しっかりキリスト教的思想があるのを感じますし、そのキリスト教的なものを生み出した体質が感じられます。

「なぜってこうある定めにあったと確信を持っていない人があろうか」という
感覚に意味があると考えるところに、「人間を大切に扱いたい精神」とでも
いうものを感じます。


「すべての人が「こうある定めにあった」という命題を立てれば、これを
反駁するのは容易なことだ。しかし、「私がこうある定めにあった」という
確信に対しては反駁は用をなさない。なぜなら、これは、<私は存在する>
という思考の内省と切り離せないからである。」


「もし人間が思考活動という名の意味を求める欲求を失い、答えようのない
問いを立てることをやめてしまったら、そういう人間は、我々が芸術作品と
呼ぶ思想の産物を生み出す能力を失うだけではなく、回答可能なすべての
問いを立てる能力も失っていくということになろう。しかも、すべての文明は
それから作られているのである。」


「すでに見たように、彼(カント)は「信仰に余地をあけるために…知識を
拒絶する必要があることを発見した」と述べた。しかし、彼が「拒絶した」
ことといえば、知りえないことについての認識であったにすぎず、しかも、
彼が余地を作ったのは信仰のためではなく思考のためだったのだ。」


○「知りえないことがある」と認識する知性は思考する働きを自由にもするし、
謙虚にもすると思います。
(あぁ、そっか~ だから「自由」?)

よく、「欧米人は自然を征服しようとし、日本人は自然と共に生きようとする」的な
言葉を聞かされたけれど、思考の分野に限定して考えてみると、欧米人は自然(自分の持ってる能力)をしっかり知ろうとする気質があるように見えます。

日本人は、自分(他人)が自然の一部だと思っています。
少なくとも、私は自分をそう感じていました。
自分(他人)の中にある「自然」は、もう動かしようがない。諦めるか、ただただ内なる本能のままに突っ走るか、どちらかしかないような感じになります。

内なる本能のままに突っ走るのが自分に正直で一番「正しい生き方」だとすると、
社会との軋轢を生み、勇気も知恵も強さも必要になる。
その勇気や強さがない自分は世間体を気にする「間違った生き方」しか
出来ない。

と考える時、自分のあり方は「必然」になり自由がなくなる。

でも、「本能」をしっかり見ると人間の欲望の中には、たしかに動物的本能の
ままに突き進んで社会との軋轢を生みたくない、という「願い」も
あるわけです。
それも、「欲望」です。

そこに、人間という動物の「自然」があるのだと思います。
そこをしっかり見ていくと、単純な「必然」ではないとわかる。

しかも、まだまだ自分にも他人にも未知なる部分があると思えば、
もっと考え方を柔軟に(自由に)してゆける…
ということなのかなぁ…

ちょっとポイントがズレてるような気もしますが。