「それに対する第一の基本的な回答は、次のようなことである。すなわち、これらの_元来はヘブライ人たちの_経験が、まったく[公共的という意味での]政治的・ポリス的世界というものに係わっておらず、もっぱら、人間自身の内面に位置づけられる経験だということである。」
これは、今日なら「意識」と呼ぶだろうが、もともとは今日なら「良心」とも呼ばれるものの機能を併せ持っていたものである。」
「というのは、「もし、律法が「むさぼるな」ということを告げなかったなら」、彼は「むさぼりがどういうことかを知らなかったでしょう」。それゆえ、「あらゆる種類のむさぼり」を引き起こしたのは、律法の命令なのである。
「律法がなければ、罪は死んでいるのです」。」
〇私たちの国には「律法」が少ない。
「もし律法がなかったら罪は引き起こされない」という話、確かにそうだと思います。
誰もそれが「罪だと知らずに」暮らしています。
知らずにいること=「引き起こされない」というのなら、確かにそうかもしれません。
でも、最初に挙げた、あのペットショップの犬を買うことが、「悪」であることを知らずに、成り立っている社会は、「罪」はないのかもしれないけれど、「弊害」はたくさん生み出されます。
そして、その弊害は、弱い者を痛めつけています。
でも、誰もがその弱い者の痛みを見て見ぬふりをして暮らしています。
いつか自分もその弱いものになる可能性がある。
自分の子供や孫がそうなる可能性もある。
その恐怖を持ちながら。
それって幸せな状況なのでしょうか。