読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

精神の生活 下


パウロは、確かに、律法を実行せよという古くからの命令が、ナザレのイエスの教えの中でラディカルに転換したことに気づいていた。」


「旧約は汝なすべし、と言い、新約は汝意志すべし、と言う。意志は、自由意志による服従を要求する命令を経験したことによって発見された。」


「私は前に、精神的活動の反省的本性について語った。”私が思考するのを思考する”
”私が意志するのを意志する”(三つの精神活動お内でもっとも反省的でない判断でさえ、それ自身へ跳ね返り、反作用する)というのである。」


「さらに、ちょうど、「掟が登場し」て罪がはっきりするだけではなく、罪が「生き返って」来るように、「罪が増大すると」恩寵も「なおいっそう満ちあふれた」のです。これは、実際、”幸福な罪”です。

というのは、もし悲惨さを知らなければ、人々はどうやって栄光が判りうるであろうか。もし夜がなければ、どうして我々は昼が判るのだろうか。」


〇ここは、わかるようなわからないような…。

「律法」がないことで「罪」もないのですが、そんな私たちには「許される」という感覚もないような気がします。

してはいけないことははっきり「ダメ!!」と言われる。
それでも、間違ってしてしまうのが人間。
自分の罪を認めて悪かった…と思ったら、大丈夫だよ(水谷修さんのようにいいんだよ)と「許して」くれて、もうここから先はもっとちゃんと考えてやろうね、と
言ってくれる存在があるのは、幸せなことだと思います。

話は少し逸れますけど、若い頃に五木寛之の小説を読みました。題名は忘れましたが、その中で、「謝って許されるのは嫌なので、自分は謝らない」というような文章がありました。

私にはその気持ちがとてもよくわかりました。

自分は許されてはいけない者だという認識が自分を苦しめます。
でも、そんな罪の償いとして、せめて「許されない」ということで
罪の重さを背負っているべき、という気持ちになったことがあります。

でも、それではそのあとは、しっかり生きていけない。

何度でも間違えてしまう。何度でも悪いことをしてしまう。でも、何度でも悪かったと思って次からは頑張ろうと思う。

それ以外にしっかり生きる道はないと思うようになって、生きるのが少し楽になりました。

「許されてはいけないから謝らない」と思って生きるのは苦しいです。