「こうして、我々の感覚は不十分だと証示する「新哲学」が「一切を疑い」、疑惑と絶望を引き起こす一方で、同様に明白な認識の全身運動が、人間が学び知ることができることについての法外な楽観論を引き起こしたのであった。」
〇まさにその通りだと思います。
「ただし、この楽観論は個々の人々には当てはまらないだけでなく、比較的小さな科学者集団に対しても当てはまらない。それはただ世代の連なり、つまり全体としての人類に対してのみ当てはまったのであった。」
〇本当に…。
「(略)[人間を動物から区別する](略)この特権とは、個々の人間が日々認識を前進させることができるというだけでなく、また宇宙が年月を重ねていく間、すべての人々がずっと共に進歩し続け、…その結果何世紀にもわたる人々の全体的な連なりが、永遠に生き学び続ける同一の人間だと考えられる、ということでもあったのである」。」
「言い換えれば、進歩は人類の企図となったのであり、この人類は現実の人々の背後で働くもので、それはしばらく後にアダム・スミスの「見えざる手」やカントの「自然の詭計」、ヘーゲルの「理性の巧知」そしてマルクスの「弁証法的唯物論」などで我々が見出だす人格化された力なのである。」
「こうして思考をむねとする人間たちが古来持ってきた確信、すなわち歴史の浮き沈みや人間を取り巻く変化してやまない状況は、真面目な熟慮に値しないという考えに対する明白な反証ができたように思われたのであった。」
「そしてヘーゲルはずっと後になっても依然として「情熱、私的な目的そして利己的な願望の満足が…行為のもっとも有効な動機である」と主張していた。したがって過去の出来事の記録ではなくて、その物語だけが意味を持つのである。」