「現に、故児玉隆也氏が取材に行ったとき、まず最初にきかれたことがf「あなたは、どちら側に立って取材するのか」ということであった。これは簡単にいえば、どの側と”父と子”の関係にあるのかということであろう。」
〇これは、今も頻繁に出てくる問題です。
何故、科学的「真理」がまっすぐに為政者に原発の途方もない危険性を知らしめて、踏みとどまることを「強制」しないのか私には理解できません。
まさに、それが出来ない為政者だということがはっきり見えるから、この国の人間には、原発を扱う資格がないと思うのです。
「(略)あらゆる「父と子隠し合い体制」を破壊しなければ、どうにもならないとい
う発想がうまれる。これらの発想に基づく破壊は部分的には行われたわけだが、破壊によって招来された自由は、否応なしに、その通常性に基づいて秩序立てられていくから、さらに、伝統的文化的規範の強いものになっていく。
それは新左翼諸集団の鉄パイプ相互殲滅戦を見れば明らかであろう。そして各集団がこれを繰り返していけば、結局、「一君万民」的体制へと回帰していくわけである。
そしてこれは、実をいうと明治以来、さまざまに表現を変えながら、まるで宿命のように絶えず繰り返している一つの現象なのである。」
「そしてひとたびこうなると、一切はそこで固定する。事実に立脚した自由な発想もその発想に基づく方向転換も不可能になり、にっちもさっちも行かなくなり、人はたとえそれが自滅とわかっていても、その方向にしか進めなくなるわけだある。
そしてその虚構が破綻しても、実は一学期と二学期で黒板の字を書きかえるだけでその虚構は消え、すぐ、別の虚構へと移れるのである。_「父と子」で隠し合うことによって。」