読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

東洋的な見方

「<東洋「哲学」について  1961年>  東洋には、哲学がないとか、美学がないとかいう人が、かなりに多い。それだけならどうでもよいが、それが何か東洋人の頭の、西洋人のほどに発達しなかったかのように考えて、何か卑下する感じを持ちたがる若い学者がいる。この下劣感はいらぬ話だ。」


「東洋の人は、すべて何ごとを考えるにしても、生活そのものから、離れぬようにしている。生活そのものに、直接にあまり役立たぬ物事には、大した関心を持たぬのである。そうして、その生活というのは、いわゆる生活の物質的向上ではなくて、霊性的方面の向上である。」


〇1961年ごろ、私たちの社会では、物質的向上ではなく、霊性的向上を目指していたのでしょうか?

私はその頃、子供でしたが、ちょっと、私の持っていた感覚とは違います。


「東洋では霊性的美の欠けたものを、本当の美とは見ないのである。」


「哲学の、理屈の、詮索に向かう点からいうと、抽象的思索に長けているのは、東洋人よりも西洋人の方がえらい。それだけ西洋哲学者には、人格として感心すべきものが少ない。」

「生きながら死人となりてなりはてて思うままに行動する。ここに無心の境地がある。」


「西洋では分別の上に「哲学」殿を建立せんとする。そうして立派な、堂々たるものが出来上がると、哲学者は、その傍らに小さなむさくるしい茅舎をこしらえて、その中に、もぐり込んでゆく。東洋では立派な思想の殿堂を作らぬ代わりに、自分の住居は、すべて行住坐臥庵室として、いかにも心にくきまでに、瀟洒で清寂である。

誰が来ても心寛ぎ、神代の昔になったと思うまでに、アンインヒビテッド(のびやか)で、八面玲瓏で、円融夢礙である。」


〇これも、私だけの感じかもしれませんが、西洋の「哲学」は普遍性=客観性を重要視していると思います。強者も弱者も同じように受け入れられる「道理」を追求しているように見えます。

だから弱者へのまなざしが感じられます。もともとキリスト教がそのような宗教だったから、ということなのでしょうけれど。

それに比べると、禅は、自然の法則をもとにした真理を基盤においている宗教なのだとは思いますが、「人間はそのまま、いまのままを受け容れることが大切」と言われてしまうと、弱者はただただ泣きながら、苦しみながら耐えるしかない、となってしまいます。

そして、極楽はこの今この時にある、と言われても、凡人には極楽を感じるのは難しすぎます。

私も昔、苦しみの中で「救い」を求めた時がありました。以前も書きましたが、神など信じたくありませんでしたから、どちらかというと、仏教の方が良いだろうと思いました。でも、仏教の救いは、私には遠すぎて難しすぎました。