読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

東洋的な見方

「子供や赤子には分別はない。「頑是ない」とか「無邪気で」とかいうのは、いずれも、この無分別の点を指すのである。大人が無分別行動をとったら、大変なことになるだろう。それなのに分別を捨てて、無心の生活に還れとは、どんな意味になるのか。

東洋の「哲学」はここから出発する。分別して分別せぬこと、「罪」の存在で、そのまま「罪のない」生活をしようという。そこに絶対の矛盾がある。この矛盾をどう処置して行くべきものか。

これが論理の上の矛盾だけでなくて、日々の生活の上に、時々に刻々に、遭遇するところのものである。神経過敏ならざるをえぬ。東洋では、「哲学」がすなわち生活なのである。」

〇この文章は、この前に書いた「西洋では分別の上に「哲学」殿を建立せんとする。」の前に書かれていた文章です。


鈴木氏は、こちらの疑問や困惑をしっかり分かっている。でも、その答えを返してくれることはない。答えられない。疑問を払しょくすることはできない。

多分、ここにこの禅の特色があるのだと思います。

昔、ドストエフスキーの小説を読んだ時、罪と罰だったか、それとも違うものだったか、もう忘れてしまったのですが、「人は神によって全てが許されている。人殺しでさえも許されている。ただ、許されていることを知っている人はそのようなことはしない。」(文章は正確ではありません)というような言葉がありました。

この言葉は、昔から、事あるごとに思い出しました。
この禅の矛盾を読みながら、またその言葉を思い出しました。

多分、禅の心もそれに似たものなのかもしれない、と思いました。

善とか悪とか言わず、おおらかに生きよ、と。そうすれば、悪を為す人間にはならないと。
皆がそうして、悪を為さないのなら、ますます善とか悪とかいう必要もなくなり、
言葉尻をとらえて、責め合う必要もなくなる。

あのハラリ氏も言っていたように、宗教や倫理には、人間が絶対に行うことができないような理想が語られている、と。
そういう理想の生き方、と見ると、これはこれで良いのでしょう、多分…。

よく知らない私が、あれこれ言えない、という気はします。

「禅と詩とは一つものである。禅には、哲学の代わりに詩があるといってよい。」


〇以前、「精神の生活」でも、哲学と詩には、同じ要素があるというようなことが書かれていました。

西洋でも東洋でも、同じように考える人がいる、というのが面白いです。

「鼠を食う猫でも、鹿を食う獅子でも、憎悪の念もなければ、強弱の自覚もなく、善悪の差別もしなければ、かわいそうだという憐れみも何もない。各自の特性をそのままに、「子供心」の発露に外ならぬ。

この点では、大人の人間ほど、罪の深いものはない。善悪とか、慈悲とか、愛とか、神の摂理とかなんとか、鹿爪らしいことをいいつつ、喋りまわりつつ、その舌のまだ乾かぬうちに、人殺しをしたり(この頃は大量生産の工業化につれて、十万、二十万の人殺しは、目を白黒させている間に、一挙に葬り去ってしまう)、泥棒をしたり、なんだりする。そうして自分らは他の動物・生物よりは、よっぽどえらいと考えている。

造物の神さまがいらっしゃるなら、早く頼んで、よりよい人間を造ってもらうことにしたいものである。」


〇善悪の差別も、かわいそうだという憐れみもなく、「子供心」の発露が素晴らしいというのなら、人間ではなく動物として生きたいのか?と問いたくなります。

次に生まれる時、猫に生まれるとしたら、野良猫の運命は他人ごとではなくなります。