読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ふしぎなキリスト教  10 ヨブの運命_信仰とは何か

「H 話を戻しましょう。理不尽な不幸に襲われたときに読む書物があって、「ヨブ記」です。「ヨブ記は、さっきの「ヨナ書」と同じく旧約聖書の「諸書」のひとつです。(略)


ヨブにとって一番辛いのは、神が黙っていることです。ヨブが神に語り掛けても、答えてくれない。ヨブは言う、「神様、あなたは私に試練を与える権利があるのかもしれませんけれど、これはあんまりです。私はこんな目にあうような罪を、ひとつも犯していません」。するととうとう、ヤハウェが口を開く。「ヨブよ、お前は私に論争を吹っ掛ける気か。何様のつもりだ?私はヤハウェだぞ。天地を作ったとき、お前はどこにいた?天地を作るのは、けっこう大変だったんだ。私はリヴァイアサンを鉤で引っ掛けて、やっつけたんだぞ。ビヒモス(ベヘモット)も退治した。そんな怪獣をお前は相手にできるか?」みたいなことをべらべらしゃべって、今度はヨブが黙ってしまうんです。


さて、最後にヤハウェは、ヨブをほめ、三人の友達を非難する。(略)
ヨブ記」を読むと、自分はまだましかも、と思えてくる。逆に言うと、ヨブみたいに苦しんで、神と対話を繰り返す人々がそれだけ大勢いる。そういう対話が可能であることが、信仰なんです。



一神教には、この考え方しかない。つまり、試練です。(略)ここで神を呪えば、本当の罪になってしまうのです。
もう一つ大事なことは、サタンが登場する点です。
サタンは「反対者」「妨害者」という意味で、神への信仰を検証する存在です。「ヨブ記」のサタンは、天界にも自由に出入りし、神の代理で地上を査察して回る係のこと。中世キリスト教でおどろおどろしく描かれたみたいな、悪魔ではない。


神への信仰は、些細なことですぐ妨害されてしまいます。自分が友人に対してサタンになったり、友人や家族が自分に対してサタンになったりする。「悪魔」として実在しているわけではなく、役割にすぎない。(略)


大澤さんの質問は、反対者サタンが、なぜ神への信仰を促進することになるのか、でしたね?


O はい。ちょうどこのタイミングで「ヨブ記」のことを伺おうと思っていました。
(略)
僕はここに、神とのコミュニケーションとは一種のディスコミュニケーションである、神とのコミュニケーションはコミュニケーションの不可能性そのものであるという逆説の究極の姿を見たくなります。神はヨブに真には答えないことによって答えているわけですから。(略)


これは非常に奇妙なテキストだなと僕は若い頃からずっと思っていました。神は、いろいろ自慢話をしたあと、一応、ヨブに「よくやった」というようなことを言って褒めて、それに比べて「お前の友人たちはダメだ」と、友人たちを正式に斥ける。(略)


はたして人は、これを読んで本当に慰めになるのかどうか。


H ヨブの運命は、ユダヤ民族の運命そのものなんですよ。

O そうなんですよね。

H 「ヨブ記」が否定されてしまえば、ユダヤ教は否定されるし、一神教は成り立たない。これは、とても大事な点です。
なぜそうなるのか。



議論の構造を整理してみると、ヨブは、幸運な時と不運な時がある。ヨブは世界を合理的に理解したいと思っている。ヨブはヤハウェと対話しているけれど、それ以外に他の神がいるとか、オカルトやマジックみたいなものがあるとか信じていません。この世界とヤハウェと私、これだけでもって、全てを解釈しようとしています。


さて、一神教の立場に立とうとすると、大澤さんが先ほど言われたように、神は世界を創造した全知全能の存在なのに、なぜこの世界を完璧に造らなかったんだろう、という問題があります。たとえば、なぜ飢えがあるんだろう?(略)また、人間の間には争いが絶えず、人間は苦しんだり殺しあったりしている。つまり、世界は端的に言って、不完全です。完全な神が、なんで不完全な世界を作ったのか。いじわるじゃないか。



このことに、一応の説明はあるんです。「創世記」を見ると、神は人間を作ったとき、最初は人間に理想的な環境を提供しようと、エデンの園という楽園に置いた。(略)でも、知恵の樹と生命の樹というのがあって、この二つの樹の身を食べてはいけないよ、それ以外の身は食べてもいいけど、と言い置いて、神は出て行ってしまうわけです。(略)


アダムとイブは、神様の命令を聞かなかった罪と、その罪を素直に認めなかった罪により、罰として楽園を追放される。(略)



ここから先は、少し神学というか、哲学っぽい話になるかもしれない。
実は、ここまでの話は逆に考えることが出来る。人間は、現状よりも良い状態を頭に思い描く、想像力を持っている。それを実現したい欲望も膨らんでいる。自分の生活に必要なものを、獲得する能力も高くなっている。


こんな能力があるせいで、他の人間から労働の成果を奪ったりもする。(略)こうした様々な不幸の可能性とともに、人間の生存の条件が与えられている。
一神教だろうと多神教だろうと、人間に与えられた能力によって、人間が置かれた条件によって、人間の生存が脅かされているというところは同じです。それを、神に投影していると考えられる。


一神教は、どう投影するか。どの現象の背後にもそれぞれ神々がいて、その恩恵がないと生きて行けない、とは考えない。この世界に神などいなくて、全ては法則と宿命によって決まっている、とも考えない。人間の間の争いや政治経済を巧みに調整してくれる政治家がいて、彼の政治的リーダーシップによって自分たちの問題が解決する、とも考えない。


そうではなくて、すべてこの世界は有限で罪深くて不完全な人間の営みなのだけれど、その背後に、完全な能力と意思と知識をもったGodという人格がいて、その導きによって生きている、と考えるわけです。


そこで人間は、「神様、この世界はなぜこんなに不完全なんですか」と、Godにいつも語り掛け、対話をしながら日々を送ることになる。対話をやめてはいけないんです。この世界が完全だろうと不完全だろうと。むしろ、この世界が自分にとって厳しく不合理に見える時ほど、対話は重要になる。


これが試練ということの意味です。試練とは現在を、将来の理想的な状態への過渡的なプロセスだと受け止め、言葉で認識し、理性で理解し、それを引き受けて生きるということなんです。信仰は、そういう態度を意味する。


信仰は、不合理なことを、あくまで合理的に、つまりGodとの関係によって、解釈していくという決意です。自分に都合がいいから神を信じるのではない。自分に都合の悪い出来事も色々起こるけれども、それを合理的に解釈していくと決意する。こういうものなんですね。


いわゆる「ご利益」では全然ない。


「O グノーシス主義は、神が二重になってしまうのですから、一神教からはどう見たって異端ですが、こういう理論が、相当な説得力をもって浸透したという事実は、やはり、神が、悪や、不完全性がはびこるこの世界を創造したと考えることに、いかに抵抗感があったかを示しているように思います。なにしろ、ヨブのような義人が、非常に不幸な目にあったりしているのですからね。」


〇私はもともと、キリスト教だけでなく、どんな宗教とも無縁な生活をしていました。だから多分、その無宗教の感覚の方が私自身の血や肉に入り込んでいるのだと思います。

そんな私から見ると、ここには、二つの噛み合わない態度があるように見えます。

つまり、一方には、苦しみの世界で生きるために、信仰を必要としていたユダヤ民族がいて、不合理な世界をGodを持ちだして合理的に解釈しようとしているという態度がある。

もう一方には、合理的な解釈で世界を見ようとする姿勢の人が、信仰の不合理さを論っている、という態度がある、と。

そして、この「不合理さ」ということで思い出すのは、以前読んだ、「東洋的な見方」です。以下、引用します。

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「改めていうまでもないが、禅の本分は、物自体、あるいは自我の本源、あるいは自心源、あるいは本有の性、あるいは本来の面目、あるいは祖師西来意、あるいは仏性、あるいは聴法低の人、あるいは無位の真人など、さまざまの名目はあるが、つまりは自分自身の奥の奥にあるものを、体得するところにある。


単なる概念的把握でなくて、感覚の上で、声を聞いたり、色を見たり、香を嗅ぐなどするように、心自体が自体を契証する経験である。」


「禅では一切の言葉を排除する。論理とか弁証法とか哲学とか形而上学とかいうのは、いずれも言葉の上の詮索である。(略)

しかしこの言葉をのみ便りとして、その裏にあるもの、本当の体験を見透すことができぬと、大きな錯りを犯すことになる。

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まず、「サピエンスは動物として生きている」という実態があるんですよね。
世界は全く理解不能で偶然の連続で、なんらかの概念を持ちだしたところで、その言葉にきちんと当てはまって片付いていてくれるようなものではない。

その認識があるかどうか…。

ここで、鈴木大拙氏が、言っている、「この言葉をのみたよりとして、その裏にあるもの、本当の体験を見透すことができぬと、大きな錯りを犯すことになる」というのは、そういうことだと思いました。

もちろん、大澤氏は、私たちを代表してこのような質問をしているのだと理解していますが。