「改めていうまでもないが、禅の本分は、物自体、あるいは自我の本源、あるいは自心源、あるいは本有の性、あるいは本来の面目、あるいは祖師西来意、あるいは仏性、あるいは聴法低の人、あるいは無位の真人など、さまざまの名目はあるが、つまりは自分自身の奥の奥にあるものを、体得するところにある。
単なる概念的把握でなくて、感覚の上で、声を聞いたり、色を見たり、香を嗅ぐなどするように、心自体が自体を契証する経験である。」
しかしこの言葉をのみ便りとして、その裏にあるもの、本当の体験を見透すことができぬと、大きな錯りを犯すことになる。」
「人間はいずれもみな罪悪深重の存在だ、地獄は必定だときかされて、おばあさんは夜の目も合わなかったという話がある。どう踏み切るべきであろうか。人間は一度この境地へ追い込まれぬと、救われぬ。(略)
都和尚も実存論者の一人であった。ところが、彼は哲学をやらなかった、言葉や論理の囚人とならなかった。」
「禅の無には消極性・否定性・寂滅性・破壊性などというものは、髪の毛一筋ほども、見つからぬ。無限の積極的可能性を有っているので、いつも「君に勧む更に尽くせ一杯の酒」である。(略)
われら一般の凡夫には、「無」を謡ったり、「祈」ったりするより、「無」をそのままに行取するところに、また人生の妙趣があるのではなかろうか。」