読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

東洋的な見方

「この経験を一種のムードのように解釈する人もある。これは自分にこの体験がないからの話にすぎぬ。ただのムードの中からは、仏教のような甚深の哲学は出てこないし、また一生を通じての安心の基礎となりえないし、また他の動かすほどの迫力が発生しないのである。(略)

そうしてこの事実は、与えられたものだ、人的所産ではない。」

〇禅では言葉ではなく、体験、実感から悟りを開くことを重要視していますが、そのようなことを聞くたびに思い出すのは、あの「実存に立ち出でる」体験です。

鈴木氏も「人的所産ではない」と言っていて、
神という言葉は出していませんけれど、
「個としての存在よりもたとえようもなく大きなものを自らの内に
感じ取らせたのであった「」と、似たようなニュアンスを感じます。

この言葉を引用するのは、これで三度目ですが、またここに書きます。11月18日に書いたものの中にありました。

===========================


アーレントがコールリッジの言葉として紹介している文章、以前もメモしましたが
もう一度、書きます。

「存在それ自体、存在そのものだけ、まさに存在するというそのこと、それを考えるようにと精神を高めたことがあるか。考えのたけを込めて「存在する」と言ったことがあるか。目の前の人に対してであろうが、花であろうが、一粒の砂であろうが、

その瞬間におかまいなしに― つまり、存在しているあれこれのあり方にはとらわれずに。

ここに到達したのならば、神秘の存在を感じ取っているのであり、それが汝の霊を
畏怖と驚異の内に根付かせているのだ。「何もない!」とか「何もないときがあった!」という言葉そのものが自己矛盾だ。我々の内部にはこういう命題をはねのけるようなものがあり、まるでそれ自体が永遠の権利をもって事実に対抗する証拠になっているかのごとき充溢した瞬間的な光を伴ったものである。


それゆえ、無いことは不可能であり、存在することは不可解である。絶対的存在についての、この直感を習得してしまえば、同じようにして次のことも習得したことになる。太古の昔に高貴な精神を、選ばれし人を、聖なる畏怖の心持でとらえたのは、
まさにこのことであり、これ以外のことではなかった、と。まさにこのことこそが、
かの人々をして、個としての存在よりもたとえようもなく大きなものを自らの内に
感じ取らせたのであった。」(コールリッジ)


=============================

私にもこの「体験」がありました。

月見草を見ている時でした。
としか言えないほどに、私にとっては、その体験を言葉にするのは、うまくできないことでした。


実はその頃、私は死にたいと思っていました。
とは言え、あの椎名麟三も書いていたように、首を吊ろうと右足を離すと左足が離れず、左足を離すと右足が離れず、の状態で、直線的に行動することは出来ませんでした。

そんな中、月見草から教えられるように、存在の神秘とでもいうようなものを感じました。

でも、それでも、その後も、何か月も何年も同じような迷いや行いを繰り返し、自分が何かを「悟った」と思ったことは一度もありませんでした。
でも、後で思うと、あれは私にとって、強烈な体験で、その後のヤスパースの言葉との出会いもあり、私は、「包括者」との関係の中で生きるつもりになりました。

そして、キリスト教に「飛び込み」ました。この鈴木氏も言っているように、
「飛び込まなければ何もわからない」と思ったのです。

そんな風に見ていくと、私にとっての、禅とキリスト教は、それほど大きな違いはなく(教えとしてはあるのでしょうけど)、必要なものを伝えてくれるその伝え方としては、適切だなぁ、と感心します。

太古の人、愚かな人も大勢いたのでしょうけど、このように「知恵ある人のアドバイス」を、こうして伝え、それを受け継ぎ、更に後代へ伝えるという営みが、
私をあの時も支えてくれたのだ、と今振り返って、感謝の気持ちが溢れます。