読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

日本はなぜ敗れるのか _敗因21か条

「戦後三十年、日本の経済発展を支えていたものは、面白いことに、軍の発想ときわめて似たものであった。日本軍も、明治のはじめに、その技術と組織を、いわばあらゆる面での「青写真」を輸入して急速に発展していった。その軍事成長の速さは、絶対に戦後の経済成長の速さに劣らない。否、それより速かったかもしれぬ。

その謎はどこにあったか。輸入された「青写真」という制約の中で、あらゆる方法で、”芸”を磨いたからである。(略)


戦後も同じではなかったか。外国の青写真で再編成された組織と技術のもとで、日本の経済力は無敵であると本気で人びとは信じていたではないか。(略)

以上は、小松氏が指摘した、この面での、精神面における根本的な解決は何一つなされていない、一証左であろう。」



「日本人の行った最初の近代的戦争は、「西南の役」である。この戦争の中に、実は現代に至るまでのさまざまな問題が、すべて露呈していると言って過言ではない。従ってわれわれが、本当に西南戦争を調べて反省する能力があったなら、その後の日本の歴史は変わっていたであろう。」



「従ってここではまず、軍事面において、日本が、いかに西南戦争への反省がなかったかを、否むしろ、西南戦争における西郷軍的発想が逆に軍部の主流になって、それと全く同じような敗け方をしつつ、どれくらいのひどさで、最後の最後までそれに気づかなかったかを、両者を対比しつつ調べてみよう。」


「従って、まるで大本営海軍報道部長平出大佐が、日本軍は「ワシントンで観兵式、ロンドンで観艦式」を行なうといい、国民がこれに驚喜したように、当時の鹿児島では、西郷軍は即座に東京に入城できるものと思い込んでいたらしい。」



「西郷軍は、緒戦で急進撃をなしとげ、一挙に熊本まで来たわけだが、ここで攻撃が頓挫する。理由は、補給がつづかぬこと、攻城用重砲の欠如、および防備には意外の強さを発揮する火力への、認識不足である。いわば西郷軍のインパール乃至はポートモレスビーであろう。

だがさらに、大きな問題は、太平洋戦争の時にきわめて似て、長くつづいた戊辰の役のため、鹿児島県民が内心では強く平穏な生活を求めていて、心底では西郷の挙兵を
支持していなかったことにある。これは、西郷の部下たちが、虚勢と実勢の違いを見抜けなかった、とでも言うべきであろうか。」



「一方、西郷軍のガダルカナル田原坂を見ると、西郷軍は、官軍の「物量攻撃」の前に壊滅するのである。そして西郷側は最後まで、「官軍の物量攻撃に負けた。物量さえ同じなら負けなかった式のことを言いつつ、次々に玉砕戦術を繰り返していく。

近代戦において、「玉砕」という言葉が使われたのは、この西南戦争がはじめてであろう。そしてここにあるのが「前提が違えば、前提を絶対視した発想・計画・訓練はすべて無駄になる」ことが、どうしても認識できない太平洋戦争中の日本軍と同じ状態なのである。」


田原坂で敗れて以後の西郷軍の潰乱状態、また奇襲・斬り込みによる自滅的反撃等もまた、すべて、太平洋戦争末期そのままである。そして、このような行動に出るからには、まことにファナスティックな超保守的・精神力日本刀万能の狂信徒の群れかと思うと、その中には村田新八のような海外留学生もいれば、戦死者の中に、英文の日記をつけていたインテリもいるのである。」


「平地を全部官軍に占拠された西郷軍の、最後の、日向から鹿児島への山中彷徨もまさに、比島の日本軍の山中彷徨のままであり、その間の西郷の行動は、後に神格化された大西郷と余りにも違う。」