読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

日本はなぜ敗れるのか _敗因21か条

「当時私は、自分の収容所から将官収容所に通勤していた。戦後の将官の態度はさまざまであったが、その中で、ごく自然でありながら一種業然たる威圧感を持ち続けていたのは、武藤参謀長であった。私は自分の幕舎に帰った時、何気なくその話をした。
その瞬間、同じ幕舎にいた海軍軍人が「ナンダ、あんな野郎」といった。(略)


武藤参謀長は、かつて陸軍省の事務局長であり、そのとき、「政党は解散すべきが軍の意向だ」という発表をし、これが新聞の一面に、大きく写真入りで出た。彼が憤慨しているのは、実はそのことなのである。

私は最初、軍が政治に介入したのはよろしくないと憤慨しているのかと思っていたところ、実はそうではなくて、海軍を無視して「軍」といったのはケシカランと憤慨しているのであった。」


「盧溝橋事件そのものは突発的事件だから仕方がないにしろ、その後も、海軍とは全く相談なく、ぐんぐん戦線を広げている。そしてどうにもならなくなると、その尻拭いを海軍に持ってきて、しかも対米海戦に躊躇する海軍は腰抜けだという、海軍にしてみれば、全く「踏んだり蹴ったり」の扱いを受け続けて来たと言う感情はどうしても拭いきれない。そしてこれが、事あるごとに出てきた。」


『陸軍、海軍    日本の陸海軍は事々に対立的だった。それでもいざ戦争となると協力するので、仲の悪い夫婦のようだと評した人がいる。それは昼間は喧嘩ばかりしていても、不思議に子供だけは作るからだという。


大東亜戦で陸海が本当に信頼し合って協力シタノハマレイ作戦までで、その後は加速度的に離反していったという。後には陸軍にも海軍ができ(陸軍で軍艦、潜水艦まで作った)、海軍は騎兵まで出来るようになった。

そしtれ陸海の国内に於ける戦争資材の争奪戦は米国との戦いより激しかったという。これも敗戦の大きな原因だ。』



「そして、比島戦末期におけるこれらの「陸軍・海軍」すなわち船舶工兵の末路は、だれも語らない一つの哀史である。彼らはまるで、小松氏のいう「仲の悪い夫婦」に認知されぬ陸軍の「私生児」の如く、どこかへ消されてしまった。


そしてその最後は、小松氏のこの記録のほかには、比島側の、”残酷物語”から知る以外ないに等しい。小松氏のいたネグロス島の、ほんの一例をあげよう。

「…ゲリラ隊員である私は、住民の援助で一九四三年の新年にカディス沖の珊瑚礁に難破した発動機船に乗っていた二十七人の日本人を捕らえた。

気も狂わんばかり喜んだ住民は、彼ら日本人十五人をまたたく間に殺してしまった。ゲリラ隊員は残余の者を本部に連れて行った。……住民の中に子供を日本兵に殺された父がおり、復讐を誓った」。つづいて耳を切り落としたり、徹底的に殴打したりのリンチのk時録が長々とつづき、最後に全員がボロ(蕃刀)で切り殺される描写で終わっている。

船舶工兵、特に難破・漂着した者への「事件」の比島側の同様な記録は、文字通り枚挙にいとまないほどあるが、その中で最も大きなものは、米軍上陸を避けて、リンガエンの北サンフェルナンドを出港して北上した船舶工兵第二十五連隊の運命であろう。」



「この部隊は転進時は約一千名、上陸用舟艇(いわゆる大発)と機帆船(四五〇~五〇〇トン、おそらく小松氏の絵と同型のもの)数十隻に分乗して、北端のアパリ港(私のいた近く)へ出航したのだが、二か月後に実際にアパリに到着し得たものは、乞食の如き姿になった五十名だけであった。

その間の彼らの運命はわからない。ただ、リンガエンとアパリの中継港クラベリヤで、この期間に、難破上陸した日本兵が全員ゲリラにボロで斬殺された記録があり、それがおそらく彼らの一部であったろうと推定できるだけである。」


〇このような話を聞きながら、想い出すのは、知人の知り合いの中国人が、「研修生」として日本に来て、どれほどひどい目にあったか、という話です。

なぜ、日本の政治は、これほどまでに、弱者を痛めつけるのか、わかりません。
反日」という感情は、大昔のものではなく、今も醸成されている可能性があると
感じました。