読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(統帥権・戦費・実力者)

「数年前、戦前長いあいだ陸軍省づめをしていた老記者に、この不思議な威圧感の話をしたところ、その人は深くうなずきながらさまざまな「武藤伝説」を語ってくれた。

一佐官だった彼に威圧されて将官があわてて敬礼してしまったこと。彼の上級者が、私を退役(くび)にするのはこの男だろうと言ったこと等々から、一にらみで雀が落ちたとか、彼が歩けば自然に人が道をあけたとかいった他愛のないものまで_そのすべては、彼が、そのとき私が受けた印象通りの人物であることを物語っていた。


そして、本当に意思決定を行うのは常に、こういうタイプの人物だったのである。
帝国陸軍では、本当の意思決定者・決断者がどこにいるのか、外部からは絶対にわからない。というのは、その決定が「命令」という形で下達されるときは、それを下すのは名目的指揮官だが、その指揮官が果たして本当に自ら決断を下したのか、実力者の決断の「代読者」にすぎないのかは、わからないからである。




そして多くの軍司令官は「代読者」にすぎなかった。ただ内部の人間は実力者を嗅ぎ分けることが出来たし、またこの「嗅ぎわけ」は、司令部などへ派遣される連絡将校にとっては、一つの職務でさえあった。(略)



しかしS中尉は、かつての軍務局長であった彼が、議会の実質的無力化を決断しかつ実行に移した実力者であることを、知っていたのであろう。




一体この実力とは何であろうか。これは階級には関係なかった。上巻が下級者に心理的に依存して決定権を委ねれば、たとえ彼が一少佐参謀であろうと、実質的に一個師団を動かし得た。



戦後、帝国陸軍とは、「下剋上の世界」だったとよく言われるが、われわれ内部のものが見ていると、「下が上を剋する」というより「上が下に依存」する世界、すなわち「上依存下」の世界があったとしか思えない。



このことは日本軍の「命令」なるものの実態がよく示している。多くの命令は抽象的な数カ条で、それだけでは何をしてよいか部下部隊にはわからない。ただその最後に「細部ハ参謀長ヲシテ指示セシム」と書いてあるから、この指示を聞いてはじめて実際問題への指示の内容がわかるのである。



だがその細部すら「上依存下」であって、参謀長は参謀に、参謀は参謀部員に指示させるという形になっている。これがまた「私物命令」が横行する原因でもあった。こういう状態だから、一中佐の軍務家長が「代読者」を通じて全陸軍を、ひいては全日本国を支配し得ても、それは不思議ではない。




ではこの実力とは何なのか。それは軍という組織とともに消滅するものなのか、それとも軍が解体しても残るものなのか。



その疑問を感じさせたのは奇妙な噂を聞いたからである。それは武藤参謀長はA級戦犯として内地に送られていたが、このたび、山下裁判の証人として比島に召喚された。そして”未決(一コン)で、戦犯容疑者を集めて「軍の名誉」のために恐るべき”命令”を下したという噂である。
彼の顔が近づくにつれて、私の関心は、むしろその方が重くなっていった。」