読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(組織の名誉と信義)

「八月十五日の高見順氏の日記は、この関係を示している。これは、そうなって少しも不思議ではない。人が、死に打ち克つことができない限りは_私は、暴君ネロと奴隷制という「死の臨在による生者への絶対的支配」の下に生きた使徒パウロが、なぜ「死に克つ」こと即ち死の支配を克服することを解放と考えたか、わかるような気がした。



「死の臨在による生者支配」には、自由は一切ない。人権も法も空文にすぎない。(略)そしてこの「死の臨在」による生者への絶対的支配という思想は、帝国陸軍の生まれる以前から、日本の思想の中に根強く流れており、それは常に、日本的ファシズムの温床となりうるであろう。



食餌はいつもより早く終わった。(略)師団長のM中将と私とが残った。私は彼の前に立った。(略)あのときは見習士官、それからまだ一年半しかたっていない。


「座れ」彼は言った。(略)沈黙がつづいた。不意にM閣下は、テレたような薄笑いを浮かべると、視線をそらし、次にうかがうように私の方を見て口を切った。一瞬の緊張、だが意外も意外、彼が口にしたのは砲兵隊の最後でも、砲の処置でもなく、一杯の水のことであった。



彼は言った_「砲兵隊査閲のとき、余り喉が渇いていたので、茶を所望したことがあったが……」と。そしてその顔は「お前あの時のことを知っているか」と問いかけているように思われた。



全く予期せぬ言葉に、私は思わず彼を見た。その驚きと意外さの表われを、彼は、私がその小事件を知らないものと誤解した。急に顔がなごみ、何やら取り繕った威厳さえ示した。だが私はその小事件を知っている。



それは砲兵隊がツゲガラオより少し北の、イギグとアムルンという小村に駐留していた時、十九年九月末の出来事である。(略)はじめての炎暑の町は、師団長にとってはつらかったのであろう。だがこの行為は確かに異常であり、非礼であり、乗用車を下りる前に副官の水筒で喉をうるおしてくるのが、戦場における武人のたしなみであっただろう。部隊長も後で、ちょっとそういった皮肉を言った。



だが今の驚きは、また別である。「砲兵隊」という言葉で、師団長が気になっていたのが、その一言だったのかという驚きであった。砲の処置も、部隊の運命も、彼は一言も聞こうとはしない。(略)



私は、天幕食堂の入口に立ち、陽光がぎらぎらと反射するひびわれた”運動場”を、手をうしろに組み、前かがみになって、自分の幕舎の方に去って行く、かつての師団長の後ろ姿を見ていた。そこには何もなかった。



この人たちの取り繕った威厳の奥にあるものが、二等兵以上に自己の意志を持ち得なかったカガシと見えて来て、不思議ではなかった。彼らのほとんど全てが、実力者なるものに心理的に依存し、それに支配され、その決定を読み上げる「代読者」だったのだから、そしてそれなるがゆえに、唯一の関心事は「外面的威厳の維持」となった_そしてそういう世界では真の責任者が常に不在であって不思議ではない。



武藤参謀長の姿はすぐ消えた。おそらく内地に送還されたのであろう。その後も、私の将官収容所勤務はしばらく続いた。将官たちは、全く影のようで何の印象も残っていない。(略)



その中でただ一人、今もはっきりと脳裡に残るほど強い印象を受けたのは、宇都宮参謀副長であった。
死は、被収容者全体の代表(スポークスマン)として米軍との折衝にあたられたが、米軍人も尊敬していた。



あのものすごい壊滅・混乱・逆転の中で、最後の最後まで冷静さと良識と落着きと人間的な尊厳を、虚勢でなく保持することは、普通の人間にはできない。(略)



収容所の噂では、非常に傲慢な態度で日本人に接したカムバックという米軍大尉でさえ、宇都宮参謀副長にだけは、不動の姿勢で自分の方から敬礼した、と言われる。だが、立派な個人も、動物的攻撃性と死の臨在の秩序にすぎぬ軍の内部では、その力を生かし得なくて不思議ではない。多くの人は戦後になってはじめて氏の存在を意識したはずである。




私は、復員船も復員列車も氏と同じで、列車では偶然その隣に掛けて来た。どこの駅か忘れたが、ヤミ屋らしい一団がどかどかと乗り込み、明らかに「兵隊やくざ」の感じのする男が、われわれの前に陣取った。



その時は、将官も兵隊も、佐世保で支給された冬服と冬外套を着ていたから、その男は、自分の目の前にいるのが復員者だとわかっても、その正体はわからない。
彼は得々として、復員船の中でやった将校や下士官へのリンチの話をした。その話は、昔の内務班の、加害者・被害者の位置が逆転しているだけで、内容は全く同じであった。



「かつて加害者は、こういう顔をしてリンチを語ったなあ、戦争は終わっても、立場の逆転だけで、その内容は、結局何もかも同じことか」。私はそう考え、暗い気持ちになった。宇都宮参謀副長はただ黙って聞いていた。



相手にはわれわれの藩王が意外であったらしく、「アンタらの船にゃ、そういうことは、なかったんすか」ときいた。私は口をきく気はなかった。そのとき氏は静かに言った。「なかったな。何もなかった……。この人たちはみな地獄を見たのだ。本当に地獄を見たものは、そういうことはしないものだ」



私はこの言葉に不意に「死の支配」の克服を連想した。
宇都宮参謀副長の言葉を人は不思議に思うかも知れない。いや、人はこの逆を常識としているのかも知れぬ。殺される場に居た者は殺すことが平気、残虐な扱いを受けた者は、残虐な扱いをするが当然、そういう人たちが一番強い復讐心を持っているはずだと。



だが静かに思い起こせば、人は、戦争直後に”特攻くずれ”という言葉はあり得ても、”ジャングルくずれ”という言葉はなかったという奇妙なことに気づくはずである。



また収容所の暴力団も、その主力は、敗戦前に投降して、あの極限の”地獄”を知らない者が多かった。そしてこの不思議な現象は、たぶん日本人だけではない。アメリカ人にもある、イギリス人にもある。



あーネスト・ゴードンは、「戦場に掛ける橋」で有名なクワイ川の「死の収容所」にいた一人であった。(略)この収容所の中で人はさまざまに変化していく。(略)だが戦争は終わる。立場は逆になり、彼は釈放され、帰国のためバンコクに向う。その途中、ある駅で、収容所に送られる日本の傷病兵を満載した車両とすれ違った。



ゴードンたちは、病人よりむしろ”病物”としてつまれていく人々を見、「自国の兵隊さえあのように取り扱う日本軍が、どうして敵国兵を人間として取り扱うことがありえようか」と思う


そして勝者である連合軍側の将校も、これを冷然と見ている。一瞬、ゴードンらは立ち上がり、夢中でかけよってこの傷病兵たちに、自分の水筒から水を飲ませ、包帯でその傷を包む。



連合軍側の将校は驚き、「こいつらは、われわれの敵じゃないか。その上あなた方は……」と大声で叫んでこれをやめさせようとするが、不思議なことに彼らは、頑としてそれをやめようとしない……、不思議と言えば不思議だが、彼らもまた、「地獄を見た人たち」であり、それはアーロン収容所を支配したイギリス人とは別人のように見える。



そして、常識から言えばあり得ない逆、いわば奇蹟に等しいこのことを、人間のことの一面を、人は心のどこかで、無条件で信じている。そしてそれが信じられる限り、パンドラの箱を開けたに等しいどのような世界にも、一つの希望(エルビス)があるのであろう。」


〇 このあと、「あとがき」があって、この本は終わっています。以前読んだ「私の中の日本軍」は「百人斬り競争」がいかにあり得ないことか、繰り返し検証している本でした。それにもかかわらず、それが、単なる戦意高揚のための作り話だと認めるのを拒む新聞記者の為に、死刑にされた日本兵を擁護するために書かれているように見えました。

でも、この「一下級将校の見た帝国陸軍」は、もう少し読者のことを考えて、「物語的に」書いてくれているように感じました。読んでいて、こちらの方が、読みやすく、引き込まれました。また、これほどの絶望的な「物語」にもかかわらず、最後に「希望」も見い出す山本氏の言葉に、ちょっと感動しました。


その時々に、もっともっと色々想ったのですが、次々と消えてしまい、改めて感想を…と思っても何も浮かびません。
この後も、何か思い浮かんだら、その都度、付け足して行くことにしたいと思います。