読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(死のリフレイン)

「ダメだ、もうダメだ」という状態に落ち込んだ時、その中における自分の一挙手一投足kを、そのまま正確に覚えていることは不可能に近い。I少尉救援の場合も、突っ込む直前でストップしたから覚えているわけで、もし突っ込んだら、たとえ生きて帰っても、それ以後の部分は正確には書けないであろう。

 

ただ、その場所を再訪するか、その近くを眺めるかだけで、そのときの自分の行動が異常なほど明確に見えて来る。奇妙なようだがこれもまた事実である。三十年ぶりにビルマをまわって帰られた古山高麗雄氏も、同じことを述懐しておられた。(略)

 


私は非常に驚いた。軍刀私有財産だという意識も凶器という意識も無かったからである。米軍がなぜこのような杓子定規なことをしたのか、その理由はわからない。実際には没収したのだから_。

 

収容所の”定説”では、あれは戦犯捜査の第一歩で、どの将校が何月何日どの地点から出て来たかを的確に把握するための措置だったのだという。「日本の軍人にとって軍刀は魂だから、それの返却のためといえば偽名を使わない」と彼らは思ったのであろうか_もしそうなら、アメリカ人とは、間の抜けた好人物のような顔をして以外に油断も隙もない人種、抑えるべきツボは実にうまく抑えている。

 

だが、この時点ではもちろん、そんな推理は浮かばない。ただ少々奇妙だなと思っただけ、そしてそれも一瞬であった。天幕を通り抜けると、私は人々と反対の方向を向き、その民家の裏側に出た。

 

武装解除とともに、一切のものへの一種異様な嫌悪感ともいったものが出て来て、人の顔も人の声も、もうたくさんだという気になった。が、理由はそれだけでなくビタグの隘路を見たくなかったからであろう。

 

民家の床は高く、それを支えている柱は、太い丸太をボロ(なた)でけずっただけのもの。柱の根本に腰を下ろし、それにもたれて床下の涼しい風をうけていると、過ぎ去ったすべては、消え去ったばかりの悪夢のように思えて来た。

 

目の前は雨期直前の乾田、からからに乾き、畦が条溝のように入り、短い草が一面に生えた平坦な土地が、遠くかすむジャングルの前端までつづく。そのなかを、くねくねと蛇行する樹木の帯がパラナン川で、部落を少し離れると、奥地の川は、両岸の樹林の帯で水面が見えなくなる。

 


平和になれば、その樹林の陰の河ばたが、水牛の休息地のはずであった。すべては過ぎ去り、盆地はまた太古の静けさに帰ったのだ。何とも言えない。深い溜息が出た。が、言葉は脳裡から消え、頭の中は完全にからだった。

 

そしてこの永遠に変わらないような盆地を見たまま、この空虚さの中に、いつまでも座っていたい気がした。それは無意識のうちに求め続けていた安息であった。そしてこの、空虚の中の安息に永住したいといった願望を実に多くの人が持っていたことを、収容所で知った。_多くの人が言った、「オレはあのとき、あそこに一生すわっていたかった」と。」

 

「車座の中に立つ二人は、本職ショオ・ダンサーだったのかもしれぬ。兵士にはあらゆる職業人がいるから、それは不思議ではない。この二人がぐでんぐでんになりながら、車座の合唱に合わせ、踊りとももつれあいともつかぬ、奇妙な所作を演じはじめた。そしてその歌こそ、戦後に最初に耳にした歌であった。(略)


言うまでもなく、これは「ワイ歌」である。(略)
女性から完全に遮断された戦場で、性的飢餓ともいう状態が生み出す兵士の妄想、それがそのまま歌になったような歌であった。日本軍にもこういう歌はあった。(略)

 

それは文字通りの痴態であった。とはいえ、このメロディーには、何ともいえぬ一種の暗さがあり、彼らがいかに陽気にはしゃいでも、その暗さは消えなかった。(略)

 

私はふと、予備士官学校で見せられた無声の「教育映画」の一画面を思い出した。それは、アフリカの奥地のフランス植民地から駆り出され、マジノ線の配備につかされている黒人兵の踊りの場面である。(略)

 

教官は「国家への忠誠を知らぬこのような野蛮人を配備したのでは、鉄壁のマジノ線も一瞬にして崩壊して当然である」と言い、忠誠心と精神力についての精神訓話でその映画は終わった。


”野蛮”、あれを野蛮というなら、いま私が見ている”画面”は、それに劣らず”野蛮”であり、さらに猥雑であった。野蛮、一体「野蛮とは何なのか」。彼らが野蛮ならアメリカ人はもっと野蛮であり、われわれも、少なくともそれと戦えるほどに野蛮ではなかったのか。

 

そして前線とは、それがマジノ線であれ、サンホセ盆地であれ、そこに投入された人間に、殺し合いという狂気の乱舞を強いるという点では同じであり、その乱舞はこの踊り以上に野蛮ではないのか、事実、おそらく石器時代以来戦争というものを知らなかったサンホセ盆地の住民にとって、必死になって殺し合う日米両軍はともに、彼らには想像できぬ狂人の集団だったらしい。(略)

 

その瞬間、何かの緊張感が背筋を走り、空白の脳裡にある光景が甦ってきた。「おれはきいた。このメロディーは、風に乗って、あのとき確かに、かすかに聞こえて来た、あ、あれはあの時だ、もう一度は、あっ、あの時だ」。

 

暗黒の中にそれは、どこからともなく微かに流れて来た。死にそこなったに等しいあのとき、「もうダメだ」と観念したそのとき、嘲笑うかのように、また死の方にいざなうかのように、それはかすかに聞こえてきた。考えてみれば、そうであって少しも不思議ではない。

 

戦闘中、このメロディが聞こえる場所にはまり込んだということは、確実な死が目前に迫ったということだから_。だがこの曲の歌詞がこんな意味とは、そのとき私は夢にも思わなかった。(略)

 

ところがその正面はビダグの隘路、七月十二日(?)の斬り込みでH中尉が射殺されたその場所、その隘路の向こうがバガオの町、七月五日(?)に、敵がそこを完全に占領しているとは知らず_いや、知らずと言っては嘘になるが_跳び込んでしまったその町であった。(略)

 

だがこの場を正面から見据え、しかも背後からあの曲が聞こえて来ては、よみがえってくる悪夢を振り払うことは、もうできない。
この曲をかすかに耳にしたのはあのとき、バガオへの渡河のあの時が最初であった。


敵地で、英語の歌詞らしきものが、奇妙な曲に乗って流れて来たのに、私はあまり警戒心を持たなかった。フィリピンは英語圏であり、その流行歌は英語であり、また彼らはラテン系諸民族と同じように天性「歌と踊り」が好きな民族、無意識のうちに常に何かをくちずさんでいた。」

 

「前にも述べたように、われわれは日没二時間前に、鍾乳洞”天の岩戸”を出た。E曹長は伝令一名をつれて、その一時間前に先発していた。明るいうちに無名河につき、渡河点を偵察するためである。(略)

 

砲身が九六キロ、砲架が約一〇〇キロ、揺架が確か一一〇キロ、それに前脚、後脚、車輪、防盾等、総計おそらく五〇〇キロ近いであろう。川底は道路ではなく、何が隠れているかわからない。何かに車輪がはまりこみ、流水に押されて砲が転倒したら、暗夜の川の真ん中で立ち往生である。

 

といって、分解搬送をすると言っても、一〇〇キロ前後のものを数人でかづぎ、つるつるの川底を水流に押されつつ暗夜にわたることは、これまた曲芸に等しく、1人が足をすべらせれば、一切がおしまいである。砲車の速度が否応なしに歩兵に送れてしまうのは、こういった理由であった。

 

日没少し前にジャングルを抜け出した。”天の岩戸”の休息のおかげで相当に元気を回復し、同時に、一週間以上つづいたうっとうしいジャングル内の湿気から出られたことが、みなの気分を爽快にした。洞窟やジャングルから出た瞬間の空気の味は、何ともいえない美味、本当に空気がうまいのである。(略)

 

薄暮、すなわち明るさが少しでも残っているうちに渡れば、さらに安全である。われわれは急ぎに急ぎ、伝令の待っていた地点から、そのまま砲を川に引き入れた。河原も相当に広く、斜面はなだらかで、まことに理想的な渡河点であった。

 

用心に用心を重ねたので、相当に時間をとったとはいえ、第一の難所が案外軽く突破できたので、急に気が緩んだ。そして目的地のビダグ隘路はもう目の前である。渡り終わるころ日はとっぷりと暮れ、あたりは急に闇に包まれた。

 

そのとき私は、はじめて、バガオの方向がボーッと赤くなっているのに気づいた。「バガオが焼けとりますな」とE曹長。「しめた」思わず私は言い、二人は顔を見合わせて笑った。急に全身の緊張がゆるんだ。火事といえば当然爆撃と考える。爆撃されているなら敵がいるはずはない。

 

ツゲガラオかアパリから、あるいは双方から突進してくる米戦車隊に、バガオで遮断されるかもしれぬという、心底に持ち続けていた恐怖と危惧は一気に去った。と同時に、赤い火を目当てに行けば、暗夜にも道を失うことはない。この「暗夜に道を失う」という恐怖は、平時の内地では想像できないが、完全な闇の戦場では、たとえ磁針をたよりにしても、しばしば起こる現象である。」

 

「私はしばらく川面を見ていた。そのときである。かすかに吹く風に乗って、どこからともなくあのメロディが流れて来た。私は聞き耳を立てた。それは確かに聞いたことのない曲であった。不気味な川の面とこの曲が、何やら強い不安感となって私に迫り、言うに言われぬある種の気配を闇の中に感じた。E曹長も同じらしかった。

 

「だれか!」抑えた鋭いE曹長の声、闇の中にふっと動く人影、咄嗟に身構えて拳銃に手をやったとき「どこの部隊だ」という声が返って来た。「U支隊の砲兵隊だ……」「なに。砲兵隊?すぐもどれ」「もどれと、どこへ!」「司令部の青木参謀の指示だ。バガオにはすでに敵が入った。サンホセ盆地を目指している各部隊はすぐに、丁号道路の出口まで行き、そこから東に入る伐開路を進んで、青木参謀の指揮下に入れ」

 

そこまで一気に言ってから、相手は私が将校であることに気づいたらしく、急に言葉が丁寧になり、説明調になった。そこにいたのは警備隊の曹長と兵一、つまり二名であった。(略)

 


この二人もその一員、そして後続部隊が、敵に占領されたとは知らずにバガオにとびこんでしまわぬよう、青木参謀の命令で連絡下士としてここに残っていたのだと言う。「全くわけがわからん」これが私の第一印象であった。というのは、私たちが必死の強行軍をつづけて来た道を、彼らは逆行するのだと言う。これでは潰乱状態を通り越してパニックそのもの、各小部隊がわけもわからずただ右往左王し、どの部隊がだれの指揮を受けているのかさえ、もうわからない。

 

支隊に配属されたわれわれは、指揮系統からいっても師団司令部の青木参謀の指示に従うわけにはいかないし、第一、指揮班と砲弾がすでにサンホセ盆地に入っているのに、砲だけここで方向を転ずるわけにはいかない。と同時に私は、彼の言葉を信用しかねた。


というのは、「負け戦さ」ではすべてが「水鳥の羽音」になり、誇大な情報に人々は右往左往する。この強行軍の途中でも、自分たちを追い越していくさまざまの他部隊から情報を得たが、それらはことごとく誇大であり、全部が”大震災のデマ”に等しかった。


「バガオの火の手におびえ、敵が突入したと誤認したんだろう。司令部の連中は大体そんなところだ。第一、全然砲声がしなかったのに、そんなバカなことがあるものか」と私は考えた。そしてきいた。「バガオに敵が突入したことを確認したのか?」これに対する返事はすこぶるあいまいで、ただ、いま述べたような指示を青木参謀から受けただけだという。(略)

 


「少尉殿、一応、バガオ道を偵察してまいりましょう」E曹長も、闇をすかしてずっと前方を見ながら言う。(略)


「待て」私は言った。「時間があるまい」。二人は黙った。(略)


それは時間的に見れば不可能と見るべきではないか。だが無偵察でつっこむのは無謀。とすれば、時間をかせぐ法はただ一つ、どれくらい時間がかかるか予測のつかない渡河の時間を短縮する以外にない_それは一門を捨てることだ。サンホセ盆地にかつぎ込んだ砲弾は、全部無事についてもせいぜい一二〇発のはず。

 

もし、米軍の近接を恐れて青木参謀の指示に藉口してここで反転すれば、ビダグの砲兵は、砲弾あって砲なき砲兵になり、同時にわれわれは砲あって砲弾なき砲兵になる。また無理をして二門を運ぼうとして失敗すれば、同じ結果を招来してさらに全員完全に全滅するであろう。一二〇発なら、一門だけが確実にサンホセ盆地に到着する道を選ぶべきではないか_。

 

二人が考えていることはおそらく同じであった。だが巻頭に勅語を掲げた「砲兵操典」に「死生栄辱ヲ共ニシ」「火砲ト運命ヲ共ニスベシ」と明記され、「砲側即墓場」が標語であり、砲を放棄して責任者が自決を強要されたさまざまな物語がある帝国陸軍では、以上のような合理的決断を下すのに、異常な決心が必要であった。

 

曹長は明らかに、その決断を私に求めかねていた。「かまわん、一門を捨てよう。オレがすでにアパリ正面で四門を破壊してきたのだから…」と思った瞬間、戦慄が火のように体を走った。

 

「あれは、だれの命令だったのか……。出発のあの多忙さにまぎれて砲の破壊という重要問題で、オレは筆記命令をもらっていなかった…」

 


「E曹長、二門とも分離せエ、一門は臂力搬送の準備、一門は川にぶち込め!ワシが責任をもつ」。彼は返事をしなかった。しかし闇夜にもわかるはっきりした態度で、模範的な不動の姿勢をとると、全身に緊張をみなぎらせ、黙ったまま私に敬礼した。

 

「偵察はワシが行く」何か言おうとするE曹長を押しとどめて私は言った。「山砲の操作の細かい点はワシは知らん。E曹長が指揮してくれ。不測の事故が起こったと思ったら、あとの処置はたのむ」「ハイ」彼の答えはただその一言であった。」