読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(最後の戦闘に残る悔い)

「昭和二十年八月十二日、終戦の三日前、私は軍用地図にあるバラナン部落の東のジャングルにいたはずである。「はずだ」という言い方は妙だが、パラナンは地図にはあっても、それはどの部落がそれか現地で確認できないからである。

 

当時の比島の地図は、奥地に関する限りきわめて不正確で、図上の部落が現実には存在せず、地図にない別名の部落が、明らかに別の位置に存在することも珍しくない。従って住民がいないと確認できないのだが、その住民はすでに一人残らず逃げ去っていた。

 

そして放置された村落では、食えるものはほぼ食い尽くされ、水牛・豚・にわとりはもちろん、犬・猫・ネズミすら見えない。動くものは、半ば崩れた農家の床に延々とつづく蟻の列、放置された腐乱屍体の中で狂おしく動き回る蛆、ワンワーンと音を立てて集まって来る蚊の集団と人糞や屍体をなめまわすハエの群れ、そして、ジャングルの中のヤマヒルだけであった。

 

否、動くものはもう一つあった。それは、発見次第即座に射殺すべきものとして、お互いに「敵」と呼び合う一群の人間であった。(略)

 

持っている兵器は、緒戦当時米軍が捨てて行った一九一七年式押収小銃と手榴弾、それに「フトン爆雷」という名の戦車攻撃用”自殺兵器”である。時には夜襲、時には斬り込みという名の、効果のない員数反撃を繰り返し、そのたびに人は死に、組織は壊滅し、歩けない者は放置され、ついに、来るところまで来た。(略)

 


一切の組織はすでに崩壊し、司令部の位置もわからず、連絡はとれず、現実には何の指示もなかった。
受領した最後の命令は「……サンホセ盆地周辺ノ密林ヲ拠点トシ、所在ノ敵ニ果敢ナル遊撃戦ヲ展開スベシ」であったが、われわれはそれを、他人の「寝言」ほどにも気にしていなかった。

 

なぜなら、それは「群れ」であって、すでに戦闘集団としての軍隊ではなく、もちろん斬り込み隊でもなく、生活集団の「取り込み隊」であったから。
戦闘集団としての軍隊は、だれかが、衣食住、武器弾薬を支給しない限り成り立たない。

 

そしてそれが断たれた瞬間に、この集団は、武器を生活用具とする生活者集団に変化せざるを得ない。小松さんはこのことを、「量人日記」の中で、次のように簡潔に記している。

 

「山の戦いでは兵器はその本来の戦闘目的に使われず、生活のための代用品となった。防毒面(吸収管内の活性炭→下痢止め、ゴム製吸収管→たきつけ、袋→雑嚢)。


鉄カブト→籾つき・米つき臼。ゴボウ剣→芋ほり用農具、軍刀→マキワリ・カマ、小銃→猟銃」」

 

「とはいえ食糧を盗奪せねば餓死する。だがジャングル前端付近の二、三家族用と思われる家屋群は、元来、米はほんの家族自給用で、本業はジャングル内の籐を切り出し、これを華僑の集買人に渡して石油・布・塩などの生活必需品と交換していたらしく、納屋の中は全部、きれいに割って切り揃えた籐のたばであって、米ではない。

 


その前方の部落も生業の半ばは籐の採集だったらしい。全く、人跡未踏と思われるところにも、必ず華僑の足跡はあった。そしてY自動車I少尉が、地区隊命令を無視して十名の部下とともに大胆にもこの家屋の移ったのが、確か7月中旬であった。


もちろん、命令などはどうでもよいが、この家を根拠地とする食糧盗奪は、非常に危険といわねばならない。もちろん彼は、それを十分知っていたのだが……。

 


どの小部隊も、さまざまな悩みをかかえていた。まず病人である。マラリアアメーバ赤痢、慢性の下痢、熱帯潰瘍、極端な栄養失調、脚気、これらはすべての人間がかかっているから病気のうちに入らない。動けるか動けないかだけが、健康・病気の違いである。

 


かろうじて動ける人間は、大体半数、ひどい部隊は三分の一。そのため、動けない病人をなるべくジャングルの奥の水際におき、ついで、動ける者が食糧盗奪に出なければならない。だが食糧のほとんどは住民が持って逃げており、その残りを手近なジャングル前端から順次に盗奪しつくすから、出撃距離はしだいに前方へ、米軍の近くへとのびていく。

 


そうなると、危険が増し、能率がおち、従って中継地が必要になる。一方、米軍の戦車道はしだいに先へとのび、危険は日々に増大していく。戦車道とは、いまの言い方に変えればキャタピラ道で、米軍は攻撃を仕掛ける前に、必ず、キャタピラ付き兵員武器輸送車の通れる道をブルドーザーで切り開く。従って、その道路ののびて行く方向が、敵の次の攻撃地点である。

 

だが彼は、一応、元気な部下だけ十名を選りすぐって、この危険きわまる場所を中継基地としたのであった。

 

比島の奥地の農民は、稲の穂先だけをつみ、これを束ねて高床式の納屋に入れ、一日分だけを臼と手ぎね脱穀する。これは、籾でおかないと雨期に腐ってしまうからだという。このたばねた穂の一束を「マノホ」といい、日本軍は専らこれを狙った。(略)

 


それでも、一日ついてやっと一人前二日分である。I少尉がどうにもならなくなってジャングルから出て来た理由はここにあった。(略)

 


危険は確かに危険だが、もしこれをしないなら、動けない病人は、放置して餓死さす以外に道はない。彼にはそれが出来なかった。そしてそれが、出て来た理由であった。(略)

 

二人は確かに同じ少尉だが、彼の方が一期上、ジャングルには進級がないというだけで、内地にいたら中尉だっただろう。その時初対面だったのだが、妙に気が合った。彼はこの土壇場にいて、不思議なほど明るい顔をし、動作はキビキビし、生気のある目は生き生きとしていた。


彼は私の形式的な命令伝達を平然と一笑に付し、愉快そうに笑いながら、私をからかった。
「山本少尉、貴官はお殿様だからな。こちらの苦労はわかるまい。手足のように動く、ピンピンしている部下八名だけで、ジャングルの前端に頑張っとるとは、いい御身分じゃ。


確かに敵の掃討戦がはじまりゃあ、真っ先にオダブツじゃろうが、どちらにしろ一日か二日の差よ。それならそれまで、それを覚悟で、貴官と同じようにやりたいと思っただけよ」
こう言われると、私も一言もない。」

 

 

「だが後で考えると、実に奇妙なことになっていた。掃討戦ともなれば、米軍はまず前哨を叩き潰して、ジャングルの出口に封をし、死に物狂いの逆襲を阻止しておく。ついてニューギニア式にドラム缶でも落して、ジャングル内の日本兵を焼き殺すつもりだろう。となれば、まず叩かれるのは当然に私のはずである。

 


私は自分を前哨と見なし、そう考えていたのだが、米軍は、I少尉以下十名を前哨、私を第二線と見た。これは当然だが、彼にも私にも奇妙な錯覚があって、私が前哨だから、私が先に襲撃されるようなつもりがあった。

 

言葉の錯覚による自己暗示であろう。その結果、彼は襲撃され、包囲され、死んだ。そして私は生きて帰った。

 

最初に記したように、それは八月十二日、時間は午後四時ごろであった。私もマラリアにかかっていたが、幸い三日熱なので、「オコリで震えがくる」のは二日おきである。大体午後の三時ごろから四十二度近い熱が出て、悪寒で全身が震え、唇が紫色になって、歯の根が合わなくなる。

 


それが四十分ぐらいつづくと、次に一転して、全身がカーッと燃えるように熱くなり、滝のように汗を拭き出し、喉はカラカラになる。そして水筒を二本もあけると、恐るべき脱力感で動けなくなる。これが合わせて約二十分、総計一時間の”拷問”である。

 


この苦役がやっと終わり、仮小屋の床からふらふらと身を起こしかけると、目の前に、にっこり笑った顔があった。I少尉であった。
陣太刀のように背に軍刀を負った彼は、丸太を並べ、その上に軍用毛布を広げた小屋の床に靴底製のわらじをはいた片足をかけ、「元気を出せ、おい、山本少尉」と言った。熱発直後の人間は亡者のように見える。彼は私が、精神的にも肉体的にもすっかりまいっていると見たのだろう。

 


「長期持久じゃぞ、軍の布告にもある通り、最後の最後まで頑張るんじゃ。投げちゃいかん。無駄死にもいかん。オレたちがここで頑張り、一兵でも多くの米兵をここに引き付けておく限り、敵の本土進攻はそれだけ遅れる。頑張って頑張って頑張り抜け。そうやってオレたちが命を縮めれば、家族の命はそれだけのびるんじゃ」


そのときは何の抵抗もなくこの言葉を聞いたが、後で考えると、子の最後の言葉は何か変である。また長期持久が軍の方針だったとはいえ、彼の言ったような布告が出たとは考えられない。だが彼と同じように、何かこの種の布告が出たと考えていた者は、非常に多かった。

 

これはルソンだけでなく、ネグロス島でも同じだったらしく、小松さんの「慮人日記」を見ると、そこでは、鈴木貫太郎首相が「無駄死にはいかん」といった布告を全軍に出したということになっていたらしい。だが小松さんも記しているように、これは明らかにおかしい。当時の日本では、首相が軍に布告を出すことはありえない。

 

小松さんはこれを、米軍の謀略宣伝ではないか?もしそうなら、日本軍に巧みに戦闘を放棄させ、ジャングルに追い込んで自滅さす、実に手の込んだうまいやり方だと記しているが、氏自身、この身方にも半信半疑である。

 


きっかけは何かわからないが、こういう架空の”布告”なるものが自然発生的に出てくるのは、生への希求の表われであろう。
高木俊朗氏が、「恩寵のたばこ」という文章のなかで、厚生省の某氏の「小野田元少尉のいうような命令なんか、出てやせんよ」と言う言葉を記している。

 

私は以上の自分の体験から、この言葉を正しいと思う。だがそのことは、小野田さんが噓をついているという意味ではない。帝国陸軍とは、上記のように、自己の希求をも命令と受け取る世界だったというだけである。
小野田氏の存在はその生き証人といえる。

 

 

そこまではわかる。しかし、I少尉の言葉の後段のような考え方を生むきっかけとなる何かが、あったのであろうか。

 


「自分が命を縮めるだけ家族の命がのびる」という発想、この考え方で自己を支えて行く生き方は、いかなる”布告”にもその契機があったとは思えない。しかし当時の彼を、彼だけでなく多くの人を、最後の土壇場でなお支えていたものは、表現は違っても、実は「犠牲になって生きる」というこの考え方であった。


私は永い間、この考え方を、家族主義的伝統に基づく日本的な自然発生的な考え方と見ていた。従ってフランクルの「愛と死」を読んだ時、これとよく似た一面をもつ考え方が、同じような考え方が、アウシュヴィッツの彼を支えていたことを知り、非常に驚いた。

 

彼は、この収容所の中で、ガス室を前にし、自己の死を考えて苦しみに苦しむ。そして「犠牲という観点からだけ、苦しみに満ちた私の現存在が、耐え忍ぶことが可能に思われ」そこで彼は、神と一つの契約を結び「自分が苦しんだだけ、それだけ母が安らかに死ぬよう、自分の死が早かっただけ、母が末長く生きられるよう」と考えて、その苦痛から脱却するのである。

 

それはI少尉の「投げちゃいかん。無駄死にもいかん……オレたちが命を縮めれば、家族の命はそれだけのびるんじゃ」と、大きな共通点をもつ考え方のように思われた。


最後の最後では「人間は結局みな同じ」と言えそうに見える。そして、そう言える一面は確かにある。しかしアウシュヴィッツとかパラナンのジャングルとかいったもう逃げ場のない土壇場ですら、なお、両者には違う点がある。

 

フランクルはその考え方を、自己の主体的な意志に基づく神との契約によると考え、一方われわれは、上から来た「だれかの指示」と考え続けた__おそらくそういう「指示」はないのだが。

 

この差は決定的であろう。そしてここに「日本的ファシズム」の精神的な根があったのではないか。

 

「自分の発想と決断に基づく自分の意志」と考えることを拒否して、実質的に自らの意志で行いながら、それを上なる指示者に仮託し、いわば「聖旨を体して……」と考え、最後の最後まで「だれかの指示」と受け取らざるを得なかったところに_。

 

これが小野田氏を生き証人といった理由だが、もちろんジャングルでは以上のような思索はなかった。だが収容所に入ってから、小松さんも私もまた多くの人も、当時の自分たちの発想に、一種の「不思議」を感じていたことは否定できない_心理学者フランクルのように、それを、分析・叙述は出来なくとも。」

〇昔、まだ独り身だった頃、私は生きるのが下手なので、いつも、いつ死んでも良い、と考えていました。多分、いつでも逃げ出せば良い、と考えることで、辛い状況を想定することから逃げられると思っていたのだと思います。

でも、子どもが出来、子どもの未来を自分の運命の一部のように感じるようになってからは、もう、「いつ死んでも良い」と考えることは出来なくなりました。
子どもを放り出して逃げることは出来ない…。

そうなってからだったと思います。自分が苦しんだ分だけ、子どもが楽になるのなら…と思うようになったような気がします。

 

 

「翌十三日、朝十時ごろ。まだ撤収してこない彼を気にしながら、飯盒の中の籾殻だらけの飯を書き込んでいると、「バシッ」と鼻先を何かが通過した。「ありゃ」と私は呑気な声を出した。

 

次の瞬間、目の前のA上等兵が、パッと身を伏せると「少尉殿ッ、タマッ」と言った。私も慌てて伏せた。奇妙なことに、射撃はそれ一発だけである。
だが次に、ブルンブルンブルンブルンという観測機のいやな爆音がした。

 

「いよいよ来やがったか」と思った瞬間、ダダダッ、ダダダッ、というものすごい銃声。思わず銃をかまえたが、あの一発以外は音だけで、全然銃弾は飛んで来ない。「おかしい」と思った瞬間、アッと頭にひらめいた。「しまった。I少尉がやられた」。

 

反射的に私は叫んだ。「前へッ」。総計九名は、一列になって、姿勢を低くしながら、ジャングルの小道を小走りに走った。無我夢中だった。川を渡り、蛇行する川の第二の渡河点を渡った時、ピュッ、ピュッと数発の銃弾が身近をすぎた。

 


「しまった。敵はこちらの動きを知ってやがる。おびき出されたか?退路を断たれ、I少尉ともども全滅か?エエーかまうもんか、突っ込んでしまえ。もうたくさんだ、こんなことは」
_そんな考えが、瞬間、頭の中をさっと通り過ぎた。(略)

 


この弾幕を越えて、どうやって川を駆け渡るか。
「見殺しにはできない、絶対にできない」と内心で言いつつ、これを渡る方法がない。無理に駆け抜ければ、うまくいって半数は屍体になる。だがダダッダダダ……という前方の銃声は、救援を求める悲鳴のように聞こえてくる。

 


「もういい、かまわん、同じことだ、飛び出そう」_私はそう思い、右手の銃を持ち直すと、左手をあげてその合図とともに「前ヘッ」と叫ぼうとし、手を半ばあげ、うしろを振り返った。
その瞬間、私は異様なものを見た。それは目であった。目以外は、すべてがかすみ、何も見えない。八人の目は、食い入るように私にそそがれている。私の「前へッ」の声と左手の合図で、彼らは死なねばならない。その目、その目。私は一瞬声がつまり、左手はだらりと下がった。

 


次の瞬間すぐうしろの兵が叫んだ、「少尉殿ッ、敵ッ」水しぶきをあげて二つの人影が、左手の上流から下りてくる。彼らは弾着点を避けて、途中から岸にかけあがり、ジャングルのしげみをものともせず狂ったようにかきわけて走って来る。

 

敵ではなく、I少尉の部下であった。一人は胸部貫通銃創を負い、後ろから繃帯で結び、前を布切れで押さえながら、それでも駆けて来た。もう一人は擦過傷であった。

 

「少尉殿、……救援を、救援を。……隊長殿が言われました。山本のところへ行ってこい、あいつなら……きっと助けに来てくれる。あいつだけはきっと来てくれると…」
二人はI少尉に命じられ、家のうしろから川辺に抜け、水際の凹部銃弾をよけつつ、ここまでたどりついたのであった。

 


彼の言葉が合図であったかのように、ピタリと銃声はやみ、迫もとまり、観測機の爆音もしなくなった。兵士は反射的に飛び出そうとする。私はそれを押さえた。敵はすでに散開しなおして、ジャングルの出口に重機の照準を合わせているかもしれぬ。

 

砲撃停止は誘いのワナかもしれぬ。一瞬シーンとした静寂があった。「終わったな」_私は胸の中で呟いた。I少尉以下八名、全員がすでに死んでいるであろう。
私は負傷した二人をまず前哨まで送り、すぐ治療するように、二人の部下に命じた。負傷した二人は驚いて私の顔を見、「少尉殿ッ」と一言いうと、歯をむき出し、顔をゆがめ、人々を振り切り、川をかけ渡って、I少尉の方へ駆け出そうとした。

 

「お前がそんな男とは思わなかった。人でなしめ」_その顔はそう言っていた。だが私は、何やら自分でも不思議なくらい冷静、というよりむしろ冷淡であった。「まて」、私は二人にいった。「前哨まで下がれ」。だが二人は動かない。そこで私は向きをかえ別の部下を、ジャングルの奥のY自動車隊に走らせた_I少尉以下の全滅を伝えるために。

 


それから、むきなおって二人に言った。「慌てることはない。次はこちらの番だ。それまで負傷の手入をしておけ」。二人はうなだれて去った。「負傷の手入れ」という言葉は、後で考えると実にひどい言葉で、人と銃を区別していない。戦場はいつしか二つを同一視さす。私も明らかにそうなっていた。

 


以上が私の、戦闘とはいえない最後の戦闘であった。なぜ、平然としておられたか、なぜ、職業的平静さといったものを持っておられたか、今ではもうわからない。次は自分の番という意識か、たえず死や屍体に接する職業の人のように、他人の死に馴れたのか、人は、自己の死以外には、すべて馴れるものなのか_彼を見棄てたという精神的苦痛が襲ってきたのは、八月二十七日以降であった。

 

われわれは「八月十五日」を知らなかった。二十七日、降伏命令が来て、分哨は解散し、各兵はそれぞれの部隊に帰ることになった。
そのときある兵士が言った。「おかげさまで、生きて帰れます」と。その言葉は逆に嘲罵のように私にひびいた。私は顔をそむけ、手を振って、黙ったまま彼を去らせた。

 

「違う。オレが飛び出さなかったのはお前たちの「目」だ」と内心では思っていたが …。生死の岐路は、個人であれ民族であれ、結局、どこかに醒めた一点があったか、なかったか、だけの差であろう。それを「卑劣な正気」と言えば、そうかもしれぬが……。

 

内地の犠牲になる。自分が命を縮めればそれだけ家族の命がのびる。そう考え、そう考えるだけで自己を支えて、最後の最後まで元気だった彼は、結局、私の犠牲となり、自らの命を縮めて私の命をのばした。前の日に「オレが手を貸すから……」と言って、無理矢理にでも前哨まで引き揚げさせれば、彼も生きて内地の土を踏んだであろう。

 

それをしなかったことは永遠の痛恨であり、またそれをせずにさらに救出も打ち切ったことは、どう理屈をつけても、結局、生涯癒えることのない心の傷となった。
そしてそれは、年月とともに軽くならず、逆に重くなり、そのときの平静さが理解できなくなっていく。

 

常識はおそらく逆の解釈をするであろうが……。硫黄島の戦跡から不意に海に身を躍らせた人も、遠くは乃木大将の自殺も、時とともに重くなるこの重さに耐えられなくなったからであろう、と私は想像している。

 


同時に、日露戦争の尉官クラスが、その後に昇進して軍を掌握していた間は、軍の暴走がなかったという説にも、何となく首肯できる。近代戦における戦闘と戦場の死は、少なくとも一人間の生涯においては、それがどんな”好戦的な人”でも、二度と経験したくないものであろう。

 


「歴戦の臆病者はいるが、歴戦の勇士はいない」と私は前に記した。そして「慮人日記」の小松さんも、同趣旨のことを記している。だが「歴戦の臆病者」の世代は、いずれはこの世を去って行く。

 

そして問題はその後の「戦争を”劇画的にしか知らない勇者”の暴走」にあり、その予兆は、平和を叫ぶ言葉の背後に、すでに現れているように思われる。小野田元少尉帰還時の異常なブームにも、私はそれを感じた。」