読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(still live, スティルリブ、スティルリブ…)

「闇の中で人が立ち上がる気配があった。その人は私に近づき、少し前でとまり、やや切り口上で言った。「いま収容された方ですか」「ハイ」私は答えた。一瞬の沈黙の後、相手はつづけた。「どなたか存じ上げない。階級も所属部隊もおうかがいしません。ここは収容所です。

 

いわば牢獄です。牢獄では一分でも前にそこへ入った者の指示に従うのが掟ときいております。私はこの幕舎の幕舎長、いわば牢名主です。今日からは、あなたの所属・階級の如何を問わず、この牢名主の指示に従っていただきたい」「ハイ」私は答えた。

 

そして「あなた」という非軍隊語の呼びかけを一瞬奇妙に感じたが、これがおそらく、「もはや帝国陸軍ではない」という最も適切な表示だったわけであろう。もっとも私が最下級の幹候少尉と知っていたら、彼の口調はこれほど丁寧ではなかったかもしれぬ。(略)

 

南部ルソンのカランバンは、北のアパリに比べると雨期が早いらしく、すでに一カ月近く降り続いた雨は、収容所の中の赤土の通路を、こねあげた璧土のようにどろどろにしていた。一足ごとに、裸足の足の指の間から泥土がヌルリと出、油断すればすぐさますべって転びそうになった。

 

サーチライトの光は幕舎群の間の通路には直接にはとどかない。かすかな光をたよりに運ぶ一足がツルリと横にそれ、そのたびに冷汗が出、同時に心臓が狂ったように打って、息がつまった。何度かしゃがみこんでは近くの天幕の張り綱をつかんで立ち上がり、やっとたどりついたのが、指示されたこの幕舎であった。

 

従ってカンバスベッドには、本当にたどりついたわけであった。屋根があり、床は固く、ベッドがあった。いずれにせよそれは、久々でたどりついた「人間の棲」であった。

 


衰弱の極みに達し、背骨の一節一節がまるええ竹の地下茎のステッキのように見える状態になると、腰がまっすぐ伸びなくなり、足があがらなくなる。幅わずか三十センチの排水溝がまたげず、一度その底に降り立って、また向こうへ登らねばならぬという考えられぬ奇妙な状態になる。

 

同時に、歩行には杖が不可欠、何歩か歩いては、息が切れてしゃがみこむ。そしてそうであって不思議でなかった。大分たってからの体格検査でも、慎重一七六センチの私の体重は、九〇ポンド(約四十キロ)しかなかった。

 

サンホセ盆地で武装解除をうけたときは、これほどではなかった。気が張っていたこともあるであろうが、肉体的におそらく、アパリからの地獄船の旅、食糧の支給なき船艙での絶食の五日間と、マニラからの貨車による雨中の輸送で、残る体力の一切を使い果たしていたのであろう。

 

そして、そのような状態の中で、やっとたどりついたこの闇の中のカンバスベッドの手触りは、「人間としての扱い」への手触りであった。そしてその手触りを感じた時、内地を出た時からここまで持ち続けたものが、一枚の軍用毛布だけでなく、頑丈な懐中時計だったことに気づいた。

 


時計は砲兵と切り離せず、「時計は兵器」であり、「時計の規制」は私の軍務の一つだった。なぜそうなるか。「何時何分射撃開始。何時何分射撃停止」と命じられた時、部隊長から分隊長までの時計が一分一秒の狂いもなく調整され、同時に歩兵部隊とも調整されていないと、とんでもない事故を起こす。(略)

 


後に、私はガダルカナル以来日本軍と死闘を繰り返してきたコノーという米軍軍曹と仲良くなったが、彼も私同様徹底した時計嫌い、「戦場の時計はチクタクと時を刻まず、still live,スティルリブ、スティルリブ、スティルリブと時を刻む。あんなものは生涯もつ気がない」と言っていた。

 

私がその幕舎で思い出したのもそれで、死を待つという状態におかれたとき、心臓の鼓動のように感じられるあの時計の音だった。(略)

 

実際この時計は、心臓の鼓動と同じように、「スティルリブ、スティルリブ、スティルリブ……」と打ち続けてここまで来た。だがこの音は常に、近づく死の足音とも言える音でもあった。


それを感ずるのは激動の最中ではない。ちょうど今夜のような、シーンとした状態で、洞窟やタコツボの中、あるいは平原のただ中で、死が、歩一歩と徐々に静かに確実に迫ってくるとき、「審判の時を刻む」というあの言葉にも似て、刻一刻「スティルリブ、スティルリブ、スティルリブ……」と言いつつ、自分を死の方へ押しやって行く。


その感じは絶対に、死という特別な何かが近寄ってくる感じとは違う。殺す者が近寄って来るというのは、「見ている者」の感じであって、「時」によってそこへ押しやられ、運ばれて行く者の感じではない。このことに関する文学的描写は、私は、その殆どすべてが真実ではないと思っている。」

 

「当時の状態はバガオから逃げ込んできた結果となった私も含めて、砲弾なき砲を捨てて来た砲兵、銃弾なき重機を捨ててきた機関銃隊が一種の「懲罰的な意味」乃至「名誉の死所を与える」式の温情的意味でビタグの隘路の死守を命じられ、同時に、順次に、生きて帰らぬ「斬込隊」を編成して、敵の後方を襲撃するように命じられた、という形になっていた。

 


だが、本当にそうだったのであろうか?実情はおそらく違う。支隊司令部はすでに部隊が掌握できず、早々にビタグを通過した各部隊は隘路を守らず、盆地の各部落に散って米を集めていたからである。

 

人間は食わねば生きて行けぬ。従って各部隊にそれをやめさす命令は、現実には実行できない。同時に、米軍の進攻がこれほど早かろうとはだれ一人予測していなかったから、まず食糧を確保させてからビタグへ集結させようという気持ちもあったのであろう。

 

そこで、砲や重機の到着を待って隘路でぐずぐずしていた者に、そのままその位置での死守を命ずる以外に方法がなかったのが実情と思われる。というのは、通常ならこの温情は、もう少し”罪”が軽い場合にのみ適用されたはずだからである。

 

この”温情”は、部隊には適用されても、直接責任者個人である将校には適用されない。その者は、処罰され、その上官と彼の指揮する部隊が、砲を捨てたつぐないをすれば、一応、情状酌量となるはずである。

 

ではなぜ私の責任は、その時点では問われなかったのか?正確な理由はわからない。S大尉に支隊司令部へ出頭を命じられたのは事実、またそこまで行ったことも事実、しかし奇妙なことが起って、私は支隊長U少将に会わなかったからである。(略)

 

その近くまで来た時、私はばったりとN軍曹に会った。彼は前に師団司令部付、乙種幹部候補生で、入隊前は私同様の学生であった。二月二十六日、私の部下が機銃掃射で全滅したとき、そのトラックに同乗し、胸に二発の貫通銃創を受けつつ、奇蹟的に助かったのが彼であった。

 

「私の中の日本軍」で記したように、その後ツゲガラオの病院でもう一度会った。その彼、まだ胸に大きく包帯をまき、杖を手にした彼は、丸い目で、見てはならぬ意外な者が現れたように私を見た。私もオリオン峠へ転進したと思い込んでいたのであろう。私も意外であり、彼は死んだと思い込んでいた。

 

彼は、野戦病院撤去とともに、支隊司令部と行動を共にし、車で来られるところまでは車で来たという。そうであろう。そうでなければここまで来られるはずがない。
お互いにすでに死んでいるであろうと思っていた相手である。彼はさまざまな意味をこめて不思議そうに言った、「少尉殿、どうしてここへ」。「腹を切りに来たらしいナ」自嘲的に私は答え、手短に事情を説明した。

 

彼は私の顔を見、私も彼の顔を見、二人は数分、黙って立っていた。不意に彼は言った、「ここでお待ち下さい」。そしてジャングルの中に消えた。小一時間も待ったろうか。夕刻が近づいて来た。」


〇この展開にびっくりしました。本当に不思議な事の連続の末に、山本氏は生き残り、この手記を書いているのだと…。

そして、「私の中の日本軍」を振り返ってみました。
こちらでは、F軍曹となっていました。でも、多分同一人物だと思います。

「出発間近になって、私は重傷を負ったあのF軍曹がツゲガラオの病院にいることを知った。それを聞いただけでまた心の中でムラムラと何かが湧き起り、何としても彼に会い、徹底的に追及して、だれがカタヤワンにトラックをまわしたか聞き出してやろう、それだけでもツゲガラオ行は意味があると考えるようになった。」

もう一か所。

「彼は私を無視するように、顔をそむけてまた空を見た。同じ下士官でも、彼はS軍曹やO伍長と違って乙種幹部候補生の出身、当時の典型的な、線の細い大学出の「都市インテリ」であった。(略)


丸顔で目が丸く、態度・物腰のすべてが、富裕な家庭の生れで、何の不自由も知らずに育ったことを示していた。戦争がなければ、生涯おそらく「下士官」には縁のない人だったであろう。(略)」

〇私もこのF軍曹はこのままここで一人で死んだのか…と思っていたので、
ここを読み、驚き、嬉しく、感動しました。

 

サンホセ盆地はそれほど広くない。意外に時間が経っていたのは、司令部に近づくとともに一種「勝手にしろ」といった気持ちになり、途中の民家で三時間近く昼寝をしていたからである。

 

薄闇が迫るころ、一枚の紙片をもって彼が現れ、「何もおっしゃらずにすぐビタグへお帰り下さい」と言いつつ、紙片を差し出した、「ビタグ死守の支隊命令です」何かを言おうとする私に、彼は、何も言わずすぐここから立ち去ってくれと強く言った。


私は何か言いかかった。しかし言葉が出ない。というのも、何が来るかわからぬこの小一時間、表面的には諦めとも、ふてくされとも、自己の運命への冷眼視とも見える心的態度を、一言でいえば「死ねと言うなら、いつでも死んでやるさ」といった態度を、意識的にとっていたものの、その底にあるものは生への渇望であったからである。

 

その間、土上に安座し、軍刀を肩にもたせかけ、肩肘をついて頬を支えて待つうちに、私はいつしか腹部の時計を取り出し、それを握りしめて頬を支えていた。立ち上がってそれに気づき、時計を再びズベラ・バンドの内側に戻した時、逆に、時を刻む音が耳の中で鳴り出してやまなくなり、それが耳鳴りのように私の思考を奪って言葉が出ず、同時にそれに追われるように私はろくに挨拶もせず礼も言わずにそこを去った。

 

従って、N軍曹が何をしてくれたかは、永久にわからない。ほぼ察しがつくことは、砲兵隊は分断され、戦砲隊はおそらくバガオで全滅したらしく、ビタグの隘路で戦闘中の残存部隊から、爾後の処置をうけたまわりたく、命令受領者が来ております、とでも言ったのではなかろうか。


ビタグに兵力が皆無なことは支隊長も知っている。司令部自身はすでにジャングルの中だが、なるべく多量に米を集めるため、一時でも半時でも、前面の平地を確保しておきたいのが人情であろう。

 

となれば、いまビタグでウロウロしている砲兵隊を活用しない手はない。その情況の下で、以上のように言えば、責任追及はひとまず棚上げにし、砲奪還のためバガオを逆襲せよと言うか、急造の歩兵となってビタグを死守せよと言うか、指示は二つにしぼられる。

 

そしてこの際、一応死守を命じて他部隊を増援に急行させ、責任の究明はその後とするのが常識であろう。さらに彼は、連絡に来たのが砲を捨てた砲車小隊長その人であることはもちろん、それが将校であるとも下士官であるとも言わなかったに相違ない。

 

戦闘中なら将校が来ず、連絡下士が来ても不思議でない。そして下士なら、直接引見せず、命令を与えて帰して当然であろう。これが、人目に触れぬうちに一刻も早くビタグへ去ってくれと彼が言った理由かもしれない。


私に命の恩人と言える人があれば、まず第一に彼である。だがあの重症の彼が、その後どうなったか私は知らない。


私はビタグへ戻った。追っかけるようにまた命令が来て、斬込みに出されることになった。すぐに二隊が編成された。各斬込み隊は十名で、携帯するフトン爆雷は六個、襲撃目標は敵の迫撃砲・重砲・戦車である。


だがどういうわけか、先発は他部隊のH中尉指揮、後発が私ということになった。目標は先発が迫と戦車、それが成功したら後発が重砲、失敗すれば後発も迫と戦車ということだったが、重砲の発射位置は私の方が的確につかめると思われたのが、不意の交替の理由かもしれぬ。

 


この急な入れ替えのため、情報の交換と引継ぎが必要になり、ビタグの隘路からやや下った平地で、昇り始めた太陽を背にしつつ、H中尉と私はきわめて事務的な打ち合わせをした。

 

彼は、背が高くやや猫背、軍刀を日本刀のようにベルトに差し込み、つるのこわれた眼鏡細紐で耳にかけ、巻脚絆に地下足袋といういで立ちだった。

 

その服装特に眼鏡が現代離れしており、私が思わず「大久保彦左ですな」というと、彼は、げっそりこけた土色の頬をゆがめるようにして、笑って言った、「あの時代の戦法ですからな、斬り込みは」。

 

言い終わると軽く私の敬礼にこたえ、何一つ特別な言葉を残さず、九人の部下とともに出発した。そしてその夜、隘路のビタグ側の入口付近の竹林で射殺された。

 

去って行く後ろ姿は、馴れた道を急ぐ人のように無造作だった。ああいう場所に行くとき、人は不思議にさりげなく行く。そして、さりげなく行く者だけが、本当に行く。だがその人が何も言わなくても、去って行くその背中が何かを語っていた。


もちろん、それまでの数日の偵察で、ジャングルにおおわれた稜線づたいに敵の背後に出、ある地点の絶壁に近い斜面を下りて下の竹林を通過すれば、不思議にそこには候敵器も赤外線遮断装置も設置されておらず、迫の陣地に近づきうることをわれわれは知っていた。(略)

 

襲撃は失敗だった。敵もさるもの、そこは、斬り込み隊をワナに誘導する誘いの隙だったらしい。(略)
日本軍が巧みに候敵器を避けることを知った彼らは、わざとそこに、候敵器も遮断装置も設置せず、重機を並べて待ち構えていたのであろう。そこへ踏み込んだ斬り込み隊は、恐ろしい位置に立たされた。


ポキポキという音を目掛けて、前からは重機の掃射、後ろは崖、それはまるで、壁の前に立たされて銃殺されるような形になった。(略)

 

「そのときH中尉殿が…」と、かろうじて生きて帰った一兵士が私に言った。「大声で、左にまわれ、左にまわれ、といわれ、軍刀で竹をバサッバサッと切り倒されました」発射と同時に、敵の耳にも音は聞こえなくなる。その瞬間大声をあげて竹を切り倒せば、闇夜の敵の注意は否応なくその方に向く。


部下を左に行かしつつ、彼一人、右へ右へ移動しつつ竹を切り、大声を出し続けた。逃れうる者は、その隙に、何もかも放り出して只夢中で左へと逃れた。一瞬銃弾が途切れ、ほっとした時にも、その声はなお聞こえ、いつしか「メン」「コテ」「ドウ」となっていたそうである。

 

だがその声も竹を切る音も発射音に消え、ばらばらの数人だけが、そのおかげでそこを逃れ得た。黙ってそれを聞きつつ、私は内心で呟いた、「オレが踏み込むはずだったのだが_いざという時、オレには到底そういう立派なことはできないだろう。少なくともバガオ突破のときのオレはそうではなかった」と_朝日をうけて、黙って稜線のジャングルへと消えて行ったやや猫背の彼の後姿が、眼底にやきついていた。彼は、私が戦場で会った唯一の本当の斬り込み隊長だった。」


〇 極限状態でもこんな風に振舞える人間がいる…。現実にそういう人は居た。

 

 

 

「命令は文字通りに朝令暮改であった。といってもそれは一面無理はなく、主導権は完全に先方に握られ、先方が思うがままに造り出す情勢に、こちらはただただ振り回されるという結果になっていたからである。

 

斬り込み隊派遣が不成功となると、今度は「待ち伏せ方式」となった。隘路の最も切り立った崖に横穴を掘り、そこにひそんで戦車を待ち、横合いからフトン爆雷をかかえて跳びつくという方式である。

 

そうなるともう観測機が旋回しようと、迫の雨がふってこようと、どうでもよくなった。否よくも悪くも、横穴から生きて出られないなら、同じことである。と言っても、人間はやはり食わねばならない。

 


私たちは横穴の中に足を投げ出してすわり、背を窟壁にもたれさせ、股で鉄帽をはさんで固定させ、それを臼にして籾を搗きつつ、近づく戦車を待った。しかし、まことに奇妙なことに戦車は一向にビタグを突破しようとしない。日課のように目の前まで来て、パラパラと射撃をしてまた下がって行く。慣れというのは変なもので、われわれはその鼻先で飯を炊いているのである。(略)

 

ただ夜中は火光がもれて危険、無煙だから昼間の方が安全なので、敵戦車が行動を起こすとこちらは飯を炊き始めるという妙なことになった。そんなことを繰り返していたある日、あっと気づいた時には、いつの間にか背後の盆地が米軍に占領され、米集めに夢中になっていた諸部隊は壊滅し、後ろから日本兵がビタグに逃げ込んできたのには驚いた。

 

司令部は行方不明だという。そこでわれわれもビタグを捨て、川づたいにパラナンの奥地へ逃れた。後にこのジャングル内で兵士たちは言った、「ビタグの横穴は良かったですな。昼間あったかい飯が食えて、夜寝られましたなあ」。

 

だが私は、夜になると時計の音に悩まされていた。しかし、それは、戦車への恐怖よりむしろ、バガオ突破の時のあの恐怖、屈辱の座における死への恐怖であった。(略)


なぜこんな奇妙なことが起ったのか。武装解除の日、われわれは、巨大な戦車輸送用のトレーラーに乗せられた。なぜこんな巨大な車両がサンホセ盆地のど真ん中にあるのか。


私たちが、米搗きと火薬による飯盒すいさんで日を送りつつ、少しずつ少しずつ用心深く前進・後退を繰り返す戦車を横穴で待っている間に、米軍はブルドーザーでジャングルを切り開き、これに鋼板を並べて、立派なハイウェイをつくり、ビタグの抵抗線を迂回して一気に背後の盆地に突入したわけである。

 

われわれの正面の戦車は結局、われわれを横穴とタコツボに封じ込めておくための陽動部隊だった。隘路の死守部隊より司令部や後方部隊が先に急襲され、「ビタグを死守してサンホセ盆地とそこの食糧を確保して長期持久を計る」という構想は、一瞬にして消し飛んだ。

 

と同時に、各部隊は無統制な「自由行動の盗奪集団」と化し、懲罰も責任も存在しない世界となった。そしてこの米軍の迂回が、私のスティルリブすなわち「まだ生きている」第三の理由であった。トレーラーの走る道から、かつてH中尉が歩いて行った稜線が見えた時、私はそう思った。(略)

 


習慣とは実に奇妙なもので、考えてみれば戦争が終わったその瞬間に、時計を腹部に抱いている必要はなかったはずである。そう思うと何か呪縛がとけたような気になり、何となく苦笑が湧き、気分が楽になった。私はそのまま寝てしまった。これが、本格的”収容所生活”の第一夜だったが、このときは、この生活が一年四カ月も続こうとは、夢にも考えていなかった。(略)

 


本収容所への移動は意外に早く、その日の午後に来た。続々と送られてくる後続の収容者がつかえていたのであろう。(略)


その晴れ間に、非番らしい米兵がやって来て、一カートンの煙草と二箱のレーションを両手で高くあげ、「トケーイ、トケーイ、ウォッチ、ウォッチ」と大声で言いつつ、陽気に我々の間を歩きまわった。その態度は率直で暗い影がなく、気持ちがよかった。


私は懐中時計を取り出すと、その紐を指にかけ、すわったまま、黙って高く手をあげた。彼は、目ざとくそれを見つけると、近寄って来て私の膝にどさりと煙草とレーションを投げ出し、私の指にかかった時計を手にすると、驚くべき早さで蓋をあけて中を見、何も言わずに立ち去った。

 

それ以後私は、時計を身につけたことがない。」