読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

シーラという子 _虐待されたある少女の物語_

「次の学年にはこの教室はもうないのよ」私はても小さな声でいったので、ほとんど聞き取れないくらいだった。だが、シーラは両手の隙間からこの言葉をしっかりと聞き取った。

波が引いたように顔の表情が変わり、シーラは両手を降ろした。怒りの表情が消え去り、彼女の顔が蒼くなった。「どういうこと?このクラスはどうなるの?」


「このクラスはもうなくなってしまうの。学校のことを決める役所が、もう必要ないって決めてしまったのよ。みんな他のクラスにいくことになったの」
「もう必要ないって?」シーラは叫んだ。「必要に決まってるじゃない!あたしにも必要だよ!あたしはまだ頭がおかしいんだよ。だから頭のおかしな子のクラスが必要だよ。


ピーターだってそうだよ。マックスも。スザンナも。あたしたちみんなまだ頭がおかしいのに」


「いいえ、シーラ。あなたはおかしくなんかないわ。前はどうだったかはわからないけど、でも今はちがうわ。もうそういうふうに考えるのをやめなきゃ、いけないときなのよ」


「じゃあ、おかしくなってやる。また悪いことばっかりしてやる。あたしはどこにもいきたくないんだから」
「シーラ、私ももうここにはいなくなるのよ」
彼女の顔が凍りついた。」



「私は六月に引っ越すの。此の学年が終わったら、遠くにいってしまうのよ。あなたにこのことをいうのはとても辛いの。だってこんなに仲良くなったんですものね。でもそういう時が来たのよ。


あなたを愛していることに変わりはないわ。それに、私がいってしまうのは、あなたが何かをしたとかしなかったからというのではないの。私が決めたことなの。大人の決めたことなのよ。」


〇 以前読んだ時も、今回読んだ時も、多分、私の頭のレベルがほとんどシーラと同じなのだと思います。このトリイさんは、なんだかんだ言って、結局シーラを見捨てるんじゃないか…と思いました。

少なくとも、あと1~2年、そばにいて、話し相手になってあげられないものかと。シーラが他のクラスでやって行くにせよ、何かの時に会えるのと会えないのとでは全然違います。

私がシーラだったら、耐えられないと思います。だって、まだ六歳で、母親が必要でたまらない年齢の子に、やっと母親代わりのような人が見つかって、べったりすることで、やっと心の安定を得たのに、それが、ある日突然、遠くに行って会えなくなるんですから。


「突然シーラの目に涙が盛り上がり、零れ落ちた。涙は彼女の丸い頬をつたい、顎まで滑り落ちた。それでも彼女は身じろぎもせず、まばたきひとつしなかった。顔はまだ両手の上に載せたままだ。私にはこれ以上いうべき言葉がなかった。


私は彼女がまだたった六歳だということを忘れてしまうことがよくあった。七月にやっと七歳になるばかりだというのに。彼女の目があまりに大人っぽいので、ついついその事実を忘れてしまうのだった。」


「私は黙ったまま、彼女が発する痛みをひしひしと感じながら座っていた。その痛みはそのまま私の痛みでもあった。私は深入りし過ぎたのだろうか?あれだけの進歩をしたといっても、私は彼女にあまりにも私に依存させ過ぎたのではないのか?


毎日毎日誰かを愛することなどを教え込もうとするよりは、一月に出会った時の状態のままでただ教えた方が、彼女のためにはよかったのではないのか?


私は教師仲間の間でも、ずっと一匹狼的な存在だった。私は”別れる時に辛い思いをしても思いっきり愛したほうがいい”派だったが、この考え方は教育界ではあまり人気がなかった。


教職課程でとる授業も、プロの教師たちも、みんながあまり深入りするなと諭していた。だが、私にはそれはできなかった。深入りせずに効果的に教えるなんてことが私にはできなかったのだ。

そして、心の奥底では、私が例の”愛して、あとで辛い思いをする”派に属しているからこそ、終わりが来たときに別れることができると考えていた。別れる時にはいつも胸が痛んだ。その子を愛していればいるほど、胸が痛んだ。だが、私たちが別れなければならない時が来たり、あるいは私にできることがもうなくなったために、その子を諦めなければならない時が来ると、私はその場を去ることができた。


そうできたのは、私にはいつも私たちが共に過ごしたときのすばらしい思い出が残っていたし、人が人に与えられるもので思い出ほどすばらしいものはないと信じていたからだ。


仮に私がシーラの学校生活の残りをずっと一緒に過ごしたとしても、私にできることはもう何もなかったし、彼女に幸せを保証してやることもできなかった。彼女が自分でするしかしかたがないことなのだ。


私が彼女に与えることができるものは、私の時間と愛だけだった。終わりの時がきたら、さぞかし別れは辛いだろう。最後には私の努力もまた思い出になってしまうのだ。


それでもシーラを見ていると、彼女の傷を癒すだけの充分な時間がなかったのではないか、この苦痛に満ちた私の教え方に耐えられるほど彼女は強くないかもしれない、などと不安になってきた。


このやり方は私には向いているかもしれないが、有無をいわさずに彼女にこの方法を押し付けたのは彼女にとっては不公平なことだったのかもしれない。だが、それではどうすればよかったというのだ?


とうとう私は自分のやり方にふさわしくない子を受け持ってしまったのかもしれず、助けるつもりで傷つけてしまったのかもしれない。そう思うと心配で胸が張り裂けそうになった。

一匹狼でいることは、学究の徒である場合には認められる。だが、実践の場にいる者の場合は、体制に順応する方が普通は安全なのだ。」


〇このトリイさんの迷いのようなものは、子どもを育てる時にも何度も感じました。私は、子どもを持つべきではなかったのではないか、と。親になる資質がないものが、親になるから、子どもをこんなかわいそうな目に遭わせてしまったのだと。

もっと、イイ親の元に生まれていれば、この子もこんな苦労をしなくて済んだのに、と。


でも、正直に言うと、あのキリスト教に頼った時に、私はその「過ち」を犯すことを前提に生きることを許されているのだ、と思いました。

それも、聖書が伝えてくれたメッセージです。

何もせずに、ただ自分一人で生きるのではなく、「少なくとも一生懸命に愛そうとして、生きる」私はそう思って生きることにしました。その気持ちが私を支えてくれました。

だから、子どもたちにしてみると、そういう意味では迷惑だったかもしれません。こんな世の中に、こんな親のもとに生まれて…。でも、みんなで、そうして、いつかきっと…とそう思って頑張るしかない気持ちで生きてきました。

トリイさんも、「正解」ではない道かも知れないけれど、出来ることを精一杯する、自分にとってのよいことをシーラにしてあげようと精一杯やった。

トリイさんは、神さまではないので、ただの人間なので、それは、充分ではないかもしれない。でも、「人が人にしてあげられることはこの位なの」という言葉に、そんな想いを感じました。