読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の中の日本軍 上 (すべてを物語る白い遺髪)

「グレゴリー・ザムザが虫に変身させられたと同じように、ある時突然「野田副官」は「野田小隊長」に変身させられる。そしてひとたび変身させられると、あらゆる抵抗はもう無駄なのである。

彼が内心いくら「オレは副官だ、オレは副官だ」と叫び続けても、すべての人間が、今ではもう英語民族も中国民族もエスペラント語族も_ということは日本人も含めておそらく十四億の人間が、少なくとも彼の名を知る限り、それはもう「野田小隊長」=「本多版「百人斬り」のB少尉」すなわち「同一指揮系統下の歩兵小隊長」の一人なのである。


彼は変身させられ、変身させられた故に殺され、殺されてもなお変身させられたままで、人びとは彼を残虐犯人・殺人鬼として文字通り「虫ケラ」同様に扱い、そう扱うのが正義だと信じて疑わない。」



「一体全体、こんなことが本当に起こったのだろうか。私は悪夢を見ているのだろうか。おとぎ話の世界というのが実在するのだろうか。」


〇私は、伊藤詩織さんのレイプ事件を聞いた時に、まさにこれと同じ感想を持ちました。日本の総理大臣が、レイプ犯を庇い、司法を歪め、一度逮捕状が出ている犯人にもかかわらず、見逃され、あたかも真っ当なジャーナリストであるかのように、テレビに出演している…

こんなことが本当に起こっているのだろうか。そして、同じ政党の自民党員たちは、その人を今も、自分たちのトップにしている。

犯罪者集団と言われてもしょうがない政党。しかも、その自民党は、佐川氏によって、公文書を改ざんされたという事実を、まさに拍手喝采で喜んでいる。

いったい、私たちの国の行政は、なんという人々によって牛耳られているのか。

私は悪夢を見ているのだろうか、と。


「これは白昼夢ではない。もちろん小説でも神話でも伝説でもない。二十世紀のわれわれの目の前で起こったのだ。なぜ起こったのだろう。偶然か?違う。第一これは「起こった」のではない。人間が起こしたのだ。


人間が起こしたことなら、その原因は人間に探求できるはずである。「侵略戦争が人間を荒廃させたから」か。違う。そんな言葉は、本当は何も探求する気がない人間の逃げ口上なのだ。


この事件にあるものは、実は言葉だけであり、主役は「虚報」という不思議な実在なのである。従って「虚報とは何か」と追及しない限り、何も開明できないはずである。」



「いわば、「大本営発表」にも「浅海特派員発表」にも共通する一つの原則があり、両方ともまことに忠実にその原則に基づいて構成されているという事実である。


今もこういった虚報が横行しているのかどうか、それは私は知らない。しかし、もし横行しているなら、おそらく同じ原則に基づいていると思うから、まずこの原則を追求してみようと思う。」


「「大本営は国民をだましたのではない」という一文を読んだが、その人の主張も「百人斬り」の関係者同様、要約すれば「われわれは見たまま聞いたままを発表した」のだということであった。」




「一方には比島作戦という反駁の余地ない証拠があり、もう一方には佐藤カメラマンの完全に信頼できる証拠がある。従って、だれが聞いても反論の余地がないように見えるが、実はこれが典型的な「詭弁」と言うものなのである。



というのは「虚報」とは、発表された部分と事実とにどれだけの誤差があったかという問題でなく、入手した情報のうち、どれを発表し、どれを隠し、その隠した部分をどう処置したか、発表部分をどれだけ粉飾したか、という問題だからである。」


〇佐川氏が証言拒否をしたという事実が、すなわち、隠さなければならない情報があったということです。そういう意味では、佐川氏は、「私には隠さねばならない、まずいことがあるのです」と告白しているのです。

隠し通した佐川氏を喜ぶということは、自民党は、佐川氏と同じ犯罪の仲間だと思われても、しょうがない。

このような明白な「状況証拠」を見せられて、なお、この安倍政権、自民党公明党を支持する人々がいるなら、ほとんど絶望的な、腐った国です。

……にもかかわらず、未だ、安倍政権は続いている。


「たとえば、前線から軍司令部に報告が来る。「敵ニ与ヘタル損害左ノ如シ」、そして戦後この報告を調べてみたら、一分一厘の誤差もなかったとする。

しかしもし報告がこれだけなら、誤差がゼロでも、これは虚報なのである。なぜなら「我ガ方ノ損害」がきれいに脱落しているからである。


従って発表された部分をどれほど丹念に事実と照合しても、虚報の証拠の何一つ出て来ないのが当然なのである。


従って問題の焦点をこちらへすりかえれば、「見たまま、聞いたまま」であることは確実に証明できるから、絶対に「虚報の責任」は免れうる。


しかしこういう報告だけをうけていたら、軍司令官が、敵は損害に損害を重ねたからこの辺で総攻撃をしようと周囲を見回したら、自分の当番兵しか残っていなかったという結果になっても不思議はない。」


「仕方がないので「朝鮮戦争でも、もし彭徳懐が「わが方の損害」という惨状を無視できる人であれば、彼はおそらく永遠に名将でしょ。そうならずに涙を流して失脚した人間の方が本当は偉大なんですよ。永久に消されてもね」と言ってもだめ。」


「ここに「虚報」のもつもう一つの要素があるわけである。すなわち、入手した情報の一部を故意に欠落させ隠蔽するだけでなく、その部分を、情報の受け手に無意識のうちに創作させるのである。」


「そしてこの常識や通念が、潜在的願望や希望的観測といっしょになると、情報の内隠された部分を、無意識のうちに創作して補ってしまうのである。

「百人斬り」にはこの点がよく現れており、二人の言動の総てが、当時の人々の頭の中にある歩兵小隊長そっくりに記されていて、否応なく歩兵小隊長と思い込ますよう、非常に巧みに誘導している。」



「従って「虚報」とは「入手した情報の一部、特に最も重要かつ不可欠の部分を故意に欠落させて発表し、その部分を、情報の受け手が無意識のうちに創作して補うよう誘導する報告もしくは報道をいう」と定義して良いと思う。」



「鈴木明氏は、向井少尉の旧部下の言葉をそのまま記しておられる。
<僕は、七月のある日、知人のまた知人のまた知人の、何人目かの知人に当たる人の口から、向井少尉の部下に当たる人が、いま京都のさるところで料理屋をやっているという話をきいた。(略)彼は向井少尉には好感をもっていないことを、初めから明らかにしていたが、こと「百人斬り」の話になると「そんなこと誰が信じてるもんですか」といい、「一人斬ったなんて話も信じませんなア」と吐き捨てるようにいった>


「なぜ私がこれをくどく言うのかといえば、日本を破滅させたのは虚報だからである。といっても、私はこれを、いわゆる「国民をだました」という点で問題にしているのではない。


虚報の恐ろしい点は、内部の人間に幻影を与えてめくら以下にしてしまうだけではない。たしかにこれも恐ろしい。(略)本当は何も見えないのなら、手探りでも歩けるのである。身の回りにも正確な情報はいくらでもあり、探す気になれば手に入り、見つけようと思えば見つかるのである。(略)

恐ろしいのは虚報という麻薬をうたれて幻影を見せられてしまうこと、いわば対象を「変身」させて見せられてしまうことで、こうなると、もう本当に何もかもわからなくなる。」


「しかしさらに恐ろしいことは、内部の人間がそのようになるに比例して、外部に対しては的確な情報を提供して、すべての意図を明らかにしてしまう結果になるからである。(略)

なぜかというと、虚報は、欠落部分を日本人だけに通用する常識や通念で無意識のうちに創作して補わないと成立しないので、それがない彼らは、かえってすぐに見破るわけである。」


「戦場では「意図」を見抜かれた者が破滅する。大日本帝国陸軍は、われわれ下っ端に「企画ノ秘匿」「企画ノ秘匿」と口がすっぱくなるほどお説教をしながら、大本営自身が国民に虚報を発表することによって、敵に正確な情報を提供し続けたわけである。」


「そこですべては見透かされる。「虚報の悲劇」であろう。これを何もかもぶちまけ、判断のつかないことは判断がつなかいというか、一切ノーコメントで押し通すかすれば、相手はこちらの意図が全然つかめなくなるのである。しかしそれができない。いつもできない、おそらく今もできないのであろうと思うが…。」


「太平洋戦争の「旅順」なのかどうか知らないが、まずカリガラ平野が、ついでルソンの山岳地帯が、ジャングルが、四十八万の腐乱死体でおおわれる_ああこの愚行、なんという愚行。


事実を言い切る勇気もなく、ノーコメントで押し切る勇気もなく、一部を隠し、一部を発表し、その発表には徒に誇大数字と刺激的言辞と思わせぶりな表現を並べ、その結果何もかもを見透かされ、すべてを察知され、存分に引きずり回される_なぜこういうことをしたのか。(略)


今も同じなのだろうか。今は違うのだろうか。同じならわれわれはあの惨劇から何一つ学ばなかったのだろうか。」


「「百人斬り」はあくまでも「国内向け」で、日本以外には全然伝わるはずがないという錯覚が氏にあったはずである。いや、そういうことすら考えなかったに相違ない。ある意味で、一番の問題点はここであろう。


その思惑通りいけば、この記事は、発表の三、四日後には、関係者以外は、すべての人が忘れていたであろう。今はもちろん、戦争中すら憶えていまい。(略)


従って浅海特派員自身が、自分の記事が「戦犯」の証拠として出現しようなどとは、全く夢想だにできず、だれかが予言しても信じなかったであろう。」



「この記事が再び事実として報道され、だれ一人疑わぬ事実として通ることは、外形は変わり表現は変わっても、国民全般の心理状態は昭和十二年当時と非常に似ている証拠かも知れない。」


「それはかつて確かに起こった。従って当然将来も起こり得るし、起こって少しも不思議ではない。

繁栄の時は長くないように、悲惨の時もまた長くはないから、それはそれでいいし、そう理解しておいてもいい。」


〇私たちの国は、この考え方なのかな…。
もし、自分が向井少尉の立場に立たされても、伊藤詩織さんの立場に立たされても、世の中はそういうもの…。悲惨の時も長くはない、と次へ進むのが、私たちの国のやり方なのでしょうか。

私たちの国は、他国からの侵略は受けなかった。でも、自国の為政者からの「虐待」に苦しむ人が大勢いるのではないか。
「他人の身になって考える」ということをしない、教養のない為政者が多いせいで、「虐待」が収まらない。

しかも、それを見てみぬふりをするその他大勢の人間。いつまで経っても、「他人の身になって考える」文化が身につかない…。




「とはいえ向井少尉ははじめからそれを知っていた。人が何と言おうと、情報の提供者である彼は、浅海特派員のもっている全情報を知っており、どれを隠し、どれを発表し、どこを粉飾したかすべてを知っていた。

ということは、浅海特派員の潜在的願望から秘匿した意図まで全部わかっていた。それだけではない。フィクションの創作に参加し、台詞を教えられ、主役を演じた彼には、さらに何もかもわかっていたであろう。

それだけにその最後はあまりにも悲惨である。何も知らないでぶち殺された方がいい、こういう死に方だけはしたくない。(略)



また向井少尉の白髪も、他人にとっては「白い髪」にすぎない。
しかしいずれも、その本人にとっては、それだけのことではない。(略)

こういう状態に陥って、しかも何もかも知っていて、それで処刑場に引かれていくことがどういう状態か、私にも想像がつかない。

「残虐」この「虐を残す」という言葉は、人をこういう状態に陥れた上で殺し、さらにその死体まで土足にかけることではないのか。」