読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の中の日本軍 上 (不安が生み出す「和気あいあい」)

「<自分は一体、何のために殺されるのか解らなくなってきた。生来誰一人手をかけたこともないのに、殺人罪とは。自分を殺す奴こそ殺人罪ではないのか。余りにも呑気に南京迄も来たものだ。


馬鹿さかげんにあきれる。信じてゐたのが悪かったがこれも馬鹿のいふことだ。天の命ずるままに死を知らずして死ぬるを宜とするか、知って反省し足らざるを悩みつつ死するを可とするか、悩む>(「諸君!」昭和四十七年八月号。鈴木明氏の「向井少尉はなぜ殺されたか」に引用された向井少尉の手記)(略)



<(略)「とにかく証拠が要る。今のところ、向こうの決め手は、例の百人斬りの記事だ。この記事がウソだということを証明してもらうのは、これを書いた毎日新聞の浅海さんという人に頼むほかはない。

浅海さんに頼んで、あの記事は本当ではなかったんだということを、是非証言してもらってくれ。それから、戦友たちの証言ももらってくれ」と早口に伝えた>(同。向井猛氏の談話)」



「こう書くとまことに陰惨だが、奇妙なことに収容所の中は朗らかであった。冗談を言い、笑い、おしゃべりをし、議論にふけり、何の屈託もなく、向井少尉のいう、まことに「呑気すぎる」奇妙な状態であった。


深刻ぶる人間など一人もいなかった。「深刻ぶる」とか「人道家ぶる」というのはおそらく閑人の道楽か何かの代償行為だろうから、そういう人は「死コン」に入れれば、おそらくその日から陽気になってしまうことだろう。」



「多くの人は、向井少尉と同じように、一体全体、自分がなぜ処刑されるのか全く理解できないままに処刑されていった。(略)


この人々の不幸は、すべての人間が、あらゆる手段をつかって、この人々に背を向けてしまったことであった。みな、極力ふれまい、関与すまい、かかわるまいとする。

全般的に見れば、浅海特派員も、そういった多くの人々の一人にすぎない。向井少尉の弟さん、向井猛氏に浅海特派員がわたした「証言」を読むと「なるほど、こうだったなあ、みんなこうだった」という気がする。


普段はどんな大言壮語をしようと、安全地帯にいる間はどんな立派な人道的な言辞を弄していようと、いざとなれば、そんなものは全部「嘘のかたまり」にすぎず、自己顕示欲と虚栄心の所産にすぎないということは、もう見飽きるほど見てきた。(略)


しかしそういう人は例外で、普通の人間は、もちろん私も含めて、いざとなれば恐怖が先に立つし、うっかりかかわりあって、自分も絞首台にひかれていくようなことには、なりたくない。戦犯裁判には実に乱暴な面があって、「証人」に立てば、「ついでにぶら下げてしまおう」とばかりに、次は被告にされるかも知れなかった。


従って、もし浅海特派員が証人に立つことによってそうなりそうな懸念が少しでもあったのなら、私は何も言わない。だが氏は非戦闘員ではないか。その心配は全くないはずではないか。


それなのに、この証言は一体なんだ。これでは、「「百人斬り」は事実だから、早く処刑しなさい」と言ってるに等しいではないか。一体全体、何のために、こういうことをするのだ。」


〇何か言ったりしたりすることで、身に危険が及ぶ時、見てみぬふりをするのは、自分の身を守るためにしょうがない、とも言えます。

そんな集団の恐怖は、連合赤軍、オウムなどを見て知りました。
そして、戦時中の日本も、言論統制が厳しく、言いたいことも言えず、

おかしな論理がまかり通っていても、権力者の顔色をうかがって、沈黙する
有識者の話を散々聞きました。

そんな社会は、嫌でたまりません。
でも、一旦、そうなってしまうと、もうどうにもならない。
そこから脱出するすべは、私たちにはない。

昔は、きっといざとなれば、私たちだって、
社会を変えるために戦うはず、と思っていました。
でも、今、この時点で、国民主権を守るために立ち上がれないなら、
絶望的だと思います。



私たちは、棚から牡丹餅のように、ほとんどなんの苦労もせずに、言論の自由表現の自由も民主主義も国民主権も、手に入れた。

でも、今、それを失おうとしているのです。
それが、本当に怖いのです。

「一体、この二人の「血の責任」はだれにあるのか。私は、最終的には、やはりこの記事を掲載した新聞社にあると思う。取材・原稿は記者の責任であれ、掲載は社の責任だと思う。

そしてこれが「証拠」たりえたのは、「新聞記事は事実の記載であって、フィクションの記載ではない」ということが、断固たる一つの前提になっているからである。

もう一つは、この記事が「戦犯の証拠」として昭和二十二年四月にすでに連合国側で問題とされているのを知りながら、二十二年十二月、二人が処刑されるまでの八か月間、この記事を再調査することなく放置しておいた点にも責任があると思う。

当時なら、今とちがって、いくらでも証人がいたはずだ。」



「人間にはできることと出来ないことが確かにある。しかしこれらは、良心とそれをする意志があれば、出来ることである。」


「(略)その中にあったのが、「山本さんが書かれているのは確かに事実だが、一つ書き落としていることがある。それは日本軍は家族主義で、特に将校団には和気あいあいたる一面があったはずだ」という意味の指摘である。


これは事実であって、この「百人斬り競争」という途方もない話の背後にあるのが、この「和気あいあい」たる一面なのである。といってもこの「和気あいあい」はある意味で「死コン」の陽気さに通ずる。」



「後で聞くと、警備隊も邦人もまことに奇跡的に全員無事であった。この人たちはもう十日近くゲリラに包囲され、夜もろくに寝ていない。そして援助が来るのが今か今かとただそれだけを待っていたのだが、それがあまり長く続くと、人間はその緊張に耐えられなくなって、一種の「諦め」に似た感情になる。

そこで車座になり、「和気あいあい」と冗談をいったり笑い話をしたり思い出を語り合ったりして、疲れると壁にもたれてポカンとしていたそうである。これもちょっと「死コン」に似ている。」


「向井少尉の「遺書」を見ると、向井・野田少尉は、平然と処刑を待っており、自ら「呑気すぎる」という状態にいて、「和気あいあい」と語り合っている。

これはあくまでも事実なのだ。嘘ではない。しかしこの二人も、Iさんの「光が…」に等しい、生への一縷の希望を見つけ得たら、その瞬間、脱兎の如くにそれに飛びついたに違いない。

事実後述するように、浅海特派員から証言がとといたと聞いた二人は、それで助かると思い、その内容がさらに確実に自分たちを処刑場へ送り込むとも知らずに、歓びのあまり声をあげて泣いている。」


「戦場には「勝った」「負けた」などという概念はない。あるのは「生きた」「死んだ」「負傷した」の三つだけである。彼らが底抜けに陽気なのは、一人の死者も負傷者も出さずに、異常な緊張感から不意に解放されたからであった。」


「もしも「勝った」と感ずる国があるとすれば、それはその国にとって不幸なだけだ。普墺・普仏戦争に「勝った」と感じたことがドイツを破滅させ、日露戦争に「勝った」と感じたことが日本を破滅させた。

ただそれだけである。戦争には「勝った」「負けた」などというものははじめから存在しない。


「生きた」「助かった」「みな無事だった」ということを自らに確認したときの、噴出してくるような歓喜を、人は、とめることが出来ない。」



「だがここに一つの問題がある。この日の十五分足らずの砲撃は、私にとって、またM軍曹以下の兵士たちにとってどんな強い緊張と恐怖があろうとも、客観的に見れば戦闘の名に価しないものであったという事実である。


本人たちにとっては、いろいろな意味で寿命が縮まるような経験であっても、安全地帯から見ている人間にとっては、取るに足らない些細なことであり、もちろん「記事」の対象になるようなことではあるまい。


この誤差は埋めえないのである。ところが、それを何とか埋めようとするから、それが、新聞記者などへの「兵士のほら」になるのである。」


「それはそれでいいのだ。ただそれを悪用し、彼らのこの心理を利用して、あたかも自分が銃弾の下をかけまわって取材したかのような大見得を切ったり、佐藤カメラマンの証言によれば「大阪に比べると一割低かった」ボーナスのためにも、「生活のためにもスクープが必要だ」(週刊新潮)ということで、その話を再構成して刺激的な大見出しをつけ、事実だと奉ずることが許されないだけである。

ましてその結果、その人たちを処刑台に送るようなことは絶対に許されない。」