読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

下流志向 _学ばない子どもたち 働かない若者たち_

「内田  (略)だから、音楽を聴くということは「学び」の基本の一つになっていると思うんです。孔子は「君子の六芸」として、礼、楽、射、御、書、数を上げていますけれど、どうして音楽の演奏と鑑賞がそれほど重要とされたのか。

これは興味深い論件ですけれど、正面切ってこれを論じた人はあまりいない。白川静先生でも、どうして孔子が楽を学ぶことを重要としたのかについては特に論究されていない。(略)

音楽を聴くというのは時間のダイナミズムの中でのふるまい方を学ぶことではないかと私は思うのです。(略)


生きるということは、いわば一つの曲を生涯をかけて演奏するということです。ある人の生涯の様々な行動や言葉の本当の意味は、曲を最後まで聞かないと確定されない。「棺を覆うて定まる」と言いますけれど、死んだときになってはじめてその人の生まれてからこれまでのすべてのふるまいの意味がわかる。(略)


六芸の一つに「楽」が掲げられているというのは「時間意識を持つこと」、「人間は時間の中の存在であると知ること」が知性の基礎だということを古代の聖賢は熟知していたからではないでしょうか。


育児の話に戻しますけれど、「子供を育てる」ということはだから「音楽を聴く」という経験とある意味では深いところで通じていると僕は思っています。」


「そういうふうに考えると、子どもを「製品」として考えて、それに外形的・数量的な付加価値を乗せて、それを親の成果として周りに示すという発想がどれほど危険なものであるかわかると思うんです。

「製品」は歌わないけれど、子どもは歌っているわけですから。それを歌として聞き取れるのは、とりあえず親しかいない。」



「内田  もちろんビジネスをやるなら、無時間モデルでいいわけです。だからこそビジネスは楽しいということがあるわけですから。どうしてビジネスが楽しいかというと、実はまさにそれが無時間モデルだからですね。」


「よく、世の奥様方が「私と仕事とどっちが大事なの」と気色ばむことがありますけれど、男が仕事をしたがるのは、仕事の方がはるかにシンプルで、アクションに対する成否の反応がすぐに出るゲームだからというにすぎません。」


「有史以来これまでの人間社会では無時間モデルの活動というのは決して支配的な形態ではなかった。狩猟生活でも農耕生活でも、労働から収穫までの間にはそれなりの時間差がある。


でも産業構造が変わるにつれて、入力と出力の間の時間差がどんどん縮まってきた。社会活動全体が高速化した。」



「キーボードを叩けば数分間で巨額の収入が得られるときに、今やっている仕事の成果が二世代後にならないと回収できないというような時間のかかる事業はグローバリズム的には論外なんです。

でも、実際には、人間社会のインフラのかなりの部分は、そういう気の遠くなるようなロングスパンの仕事で支えられている。そのことを国民的規模で忘れようとしている。」

〇 この「ロングスパン」の話で思い浮かんだのは、私たちの国の食糧自給率の低さです。

というのも、最近スーパーでドイツ産やアメリカ産の豚肉をよく買うようになりました。それだけ国産は価格が高くなってしまうから、ということなのだと思いますが、そうなると、畜産も衰退していき、自給率はますます下がる、ということになってしまうのでは?と。

「内田  ついこのあいだ、「スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐」を試写会で見る機会があったのですが、この全六作を通じて、映画のメイン・テーマが師弟関係なのだということに気がつきました。(略)


いちばん面白かったのは、「ジェダイの騎士」には「メンター(先達)」がいて、メンターには必ず弟子が一人いるというその構造です。「エピソード2」と「エピソード3」では、弟子の方がメンターよりも腕前が上になってしまうという逆説が物語の縦糸になっています。

アナキン・スカイウォーカーがオビ・=ワン・ケノービよりも強くなってしまう。そして、「俺の方が才能がある。俺の方がもう師匠よりも強い」と言い出して、悪の道へ走ってしまう。(略)


こういう話からあまり簡単なメッセージを取り出すのはよくないことなんですけれど、あえて申し上げると、「師であることの条件」は一つでいい、ということだと思うんです。

「師であることの条件」は「師を持っている」ことです。
人の師たることのできる唯一の条件はその人もまた誰かの弟子であったことがあるということです。それだけで十分なんです。

弟子として師に仕え、自分の能力を無限に超える存在とつながっているという感覚を持ったことがある。ある無限に続く長い流れの中の、自分は一つの環である。長い鎖の中のただ一つの環にすぎないのだけれど、自分がいなければ、その鎖はとぎれてしまうという自覚と強烈な使命感を抱いたことがある。そういう感覚を持っていることが師の唯一の条件だ、と。(略)

長い鎖の中には大きな環もあるし、小さな環もある。二つ並んでいる環の後の方の環が大きいからといって、鎖そのものの連続性には少しも支障がない。
でも、弟子が「私は師匠を超えた」と言って、この鎖から脱落して、一つの環であることを止めたら、そこで何かが終わってしまう。

でも、アナキンに背かれた後も、師匠のオビ=ワンの方はまだジェダイの「騎士道」につながっている。オビ=ワン自身の師匠のヨーダに対する深い敬意は少しも変わらない。だから、弟子のアナキンに離反された後も、オビ=ワン自身は成長を続けることができる。師を超えたと思った瞬間にアナキンは成長を止めるけれど、師は超えられないと信じているオビ=ワンは成長を止めない。


今言っている「成長」というのは計測可能な技量のことではないんです。ある種の開放性と言ったらいいでしょうか。自分の中のどこかに外部へ続く「ドア」が開いている。年を取っていようが、体力が衰えようが、つねに自分とは違うもの、自分を超えるものに向けて開かれている。

そうやって自分の中に滔々と流れ込んでくるものを受け止めて、それを次の世代に流していく。そういう「パッサー」という仕事が自分の役割だということが分かっているということです。」

〇私は「スター・ウォーズ」は何も感じませんでした。でも、あの「シーラという子」のトリイ・ヘイデンさんは、あの本の中で、仕事のストレス解消のために、「スター・ウォーズ」を見ながら食事をするのが楽しみ?になっている、というようなことを書いていました。


また、この「パッサー」の役割を自覚している人こそが本物という話は、以前、拠り所を探して、キリスト教か仏教か…という迷いの中にあった時にも聞いたことがあります。

どれほど素晴らしく見える人でも、その人が「自分を見なさい」「自分を信じなさい」と言っている人には、気をつけた方が良い、と。

むしろ、「自分ではなく、自分の師を見なさい」と師を讃える人こそが信頼できる、と。

ジョージ・ルーカスにも「師匠」がいたんですね。黒澤明がそうなんです。そう考えたら、「スター・ウォーズ」が黒澤へのオマージュだということが分かりました。驚かれるかも知れませんけれど、「スター・ウォーズ」の元ネタって、黒澤の「姿三四郎」なんです。」