読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

下流志向 _学ばない子どもたち 働かない若者たち_

「教育者に必要なのは一つだけでいい。「師を持っている」ということだけでいい。
その師は別に直接に教えを受けた人である必要はない。書物を通じて得た師とか、あるいは何年か前に死んだ人で、人づてに聞いてこんな立派な先生がいるというのを知ったというのだって、かまわない。

「私淑する」というのは、どんなかたちでもできるんです。教育を再構築するというのは、この師弟関係の力動性、開放性を回復することから始めるしかない。

「師弟の物語」にもう一度日本人全体が同意署名をすること。これはマインドセットの切り換えだけですから、コストはゼロなんです。」

〇私たちの社会では宗教と政治を話題にすると、一気に冷たい目で見られる…。実際私自身も、他の人の宗教、例えば創価学会などには、冷たい目を向けてしまうので、お互い様なのですが…。

だから、その手の話は、このネットでだけしかしないのですが、そのネットであってもかなり勇気を振り絞らなければ言えないのが、やはり宗教の話です。

勇気を振り絞ります(^-^;

…というのも、ここで言われている、この「師」というのは、私にとってはイエス・キリストなのです。
というか…キリスト教の信徒はある意味、全員がこのイエスを「師」として仰ぎその教えを学び、その生き方に習おうとしていると私は思っています。

エスはもちろん「神」です。でも、人間として生き、私たちにその生き様を見せ、生きる意味を伝えようとしてくれた。命がけで伝えようとしてくれた。だからこそ、その弟子は、イエスのことを多くの人々に伝え、ここに「空しくない生き方がある」と知らせようとした。

伝えられた信徒はその教えが自分を「確かに生かしてくれたこと」を実感し、また次の世代に伝え続け、今の西洋の文化が出来上がった。

私はそう理解しています。

そういう意味では、多くの西洋人は、「師」を持っている。つまり、教育者になることができる、ということなのか…、と思いました。


「平川  (略)ところが、きちんと武道をやっている人の場合には、そういうことが起こらない。師は絶対なのです。例えば、私が技術上のことで質問しても、師は「これこれこうだ、と私は思う」とは言わない。そうではなくて、「私は師からこう聞いた」としか言わない。私見を述べない。師は断言しない人なのです。」



「内田  Aさんがおっしゃる通り、人から尊敬される方法は一つしかないんです。「人を尊敬するとはどういうことか」を身をもって示せるということです。(略)


よく「うちの子共は言葉遣いがよくない」とこぼす親がいますけれど、たいていの場合、そういうことを言う当の親がろくな言葉遣いをしていない。(略)


敬意とか配慮というのは、経験を通じてしか学習できない。敬意を向けられたこともないし、愛情を示されたこともない子供が敬意や愛情を表現できるはずがない。(略)

どこかで「無限の尊敬」を現に実践的に生きている人に出会い、その人が敬意を持つことからどれほど深い喜びを汲みだしているかを目の当たりにするしかない。

人を尊敬することによって得られる喜びは、熱というかオーラを発しますから、近くでそういう人を見れば、体感として実感できる。人を尊敬することのもたらす高揚感というのは、口で言ってもわかりません。現にその高揚感を生きている人と出会うしかない。」


〇この、「現にその高揚感を生きている人と出会うしかない。」という言葉を読んで、思い出しました。

「私は、イエスを「師」としている」などと言いましたが、でも、本当は、その前に、ある人との出会いがありました。というより、その人と出会わなかったら、私は、今もまだ迷いの中にあったかもしれない…。

その人はキリスト教の牧師でした。

私は大人というものは、子どもをコントロールしようとするものだと思っていました。でも、その人は、私をコントロールしようとする前に、私としっかり信頼関係を持とうとしてくれました。

具体的には、その頃、私はかなり荒れていて、明日にも自殺を試みてしまいそうに見えていたと思います。
そんな気持ちをその牧師には話しました。でも、そのことを私の親には、言わないでほしいと頼みました。

でも、本当は、そう言いながらも、人に話してしまったからには、親にも筒抜けになるに違いない、と思いました。
それが、大人というものだと。

でも、その牧師は、私との約束を守ってくれました。
そして、私は、結局は、親元に戻り、再出発することにしたのですが、その時、長い手紙をくれて、(親に)言わずにいることで、迷い悩んだ、と書かれてありました。
そして、祈っていた、と。

その時、世の中にこんな大人がいるんだ…とびっくりしました。

今思うと、その牧師が真剣にイエスを師として生きているのが伝わったから、私も信じてみようという気になったような気がします。


「内田  (略)「文化資本」というのはピエール・ブルデューの用語で、平たく言えば「教養」ということです。美術や音楽についての批評眼とか、適切なマナーとか、服装のセンスとか、ワインの選び方とか……そういう身体化された「お育ちのよさ」みたいなものです。」



佐藤学さんから伺ったんですけれど、東大のゼミでももう学生同士の話題が噛み合わなくなってきているそうです。音楽の話とか、美術の話とか、文学の話になると、そういう話題にまったくついていけない学生と、そういう話題がちゃんとできる学生の間にはっきりとした断層が生じている。

子供の頃から家に芸術家や政治家が出入りしているとか、留学していて外国語が堪能だとか、海外に友人がいて頻繁に行き来しているとか、小さい頃から芸事をやっているとか、いわゆる昔ながらの上流社会の「リベラルアーツ」を身につけて育ってきた子どもが一方にいて、子供の頃から塾通いで勉強だけしてきて、本も読まないし、音楽も聴かないし、美術もわからない……というような学生が他方にいる。

その落差がもう埋めがたくなっている。(略)


現に、大学に進んではじめて自分に文化資本がないということを知った東大生は必死になってその後れを取り戻そうとする。でも、自分には文化資本が欠けているということを知らない階層にはそもそも努力するモチベーションがない。

だから、階層間の文化資本格差は拡大する一方なんです。」



〇 「質問! 人はみな、「お育ちの良さ」を目指すべきなんでしょうか?
貧乏人は服装のセンスを磨くにも、音楽を聴くにも、ワインの選び方を身につけるにも、大きなハンデがあります。貧乏人は、それだけで、「お育ちが悪い」と軽蔑されるしかないのでしょうか?