「O まだまだあるんですが、よろしいですか?(略)
H どうぞどうぞ。
Oそれは「マリアとマルタ」の話です(ルカ10章)。(略)
そうしたらイエスは、マルタに「お前はどうでもいいことばっかり気にしている」「大事な事は一つだけだ、マリアはいい方をとったのだ」などと言うわけです。(略)
一般的な解釈だと、マルタとマリアの姉妹は、日常のプラクティカルな生活と宗教観想的な生活とをそれぞれ寓話的に表現していて、イエスの話に集中していたマリアが後者で、マルタの方は日常の些末なことに気をとられていた、とされています。(略)
H あのね、それは、マルタが怒ったからいけないんだ。
O なるほど。
H マルタは炊事場で準備したり、水を汲んできたり、掃除したりしていることを喜びとしてやっていればよかった。そうじゃなくて、内心、マリアの方がいいと思っていたんだよ。
しかもそれをマリアに対する怒りとしてぶつけたんだ。もしも、イエスを本当に歓迎しているんだったら、マリアの役割とマルタの役割が両方必要だと理解できるから、
自分の役割に満足したし、そういうマリアに対する嫉妬の感情が出てくるはずもない。だから怒られた。
〇 このたとえ話は、私は、何度も何度も思いだしました。
というのも、マリアの行動を真似る方が、ずっと性にあっているからです(>_<)。
例えば、人(親戚)が家に来て宿泊するとなると、本当に大変です。
まず、掃除、食事、寝具の準備、そして、その人びとが帰った後は、また寝具の洗濯などなど。
掃除も料理も得意なら良いけれど、私のように苦手な人間がそれをするのは、相当な苦痛です。それでいて、満足してもらえる可能性は、低い。
多分、マルタはそんな大変な状況だったのだと思います。
そんな中、何も手伝わないマリアにイライラしてしまうのは、とてもよくわかります。
喜んでやりなさい、という橋爪氏の言葉もわかりますが、喜んで出来ない人の方が多いと思います。
そうなると、どうなるか。
親戚の訪問を嫌がるようになります。
本来は、親戚とのコミュニケーションが大事な事で、そのための食事や掃除や寝具なのに、本末転倒してしまいます。
あのマルタの、食事はどうだった、接待はどうだった、とあれこれ批判するなと。
私は、そう思いました。
これに関しては、あの「フランスはどう少子化を克服したか」を思い出します。
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「私たちの仕事の基本は、保育園で過ごす間、子どもたちがそれぞれ尊重されていること、愛情を受けていると感じられるようにすることです。そして自宅以外の場所での他者との生活から、知覚の目覚めを促すこと。
それ以外のことは二の次なんです。」(フランスはどう少子化を克服したかより)
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肝心なことをはっきりさせる。そして、それ以外のことは、二の次だとする。
ですから、マルタのやっていることは、「二の次」のことだと私は思っていました。
でも、大澤氏も橋爪氏もどっちも大切だと考えておられる。
そうなると、結局、マルタはイエスの言葉を聞くことが出来ません。
両方は出来ません。私はそう思います。
「H こことよく似ているのは「創世記」の「カインとアベル」の話だな。(略)
それぞれ、収穫に恵まれたから、初物を捧げたんだけど、神はアベルの献げものを喜び、カインの献げものを喜ばなかった。それでカインはどうしたかというと、怒って、弟のアベルを原っぱに呼び出し、刺し殺してしまった。すると神は、カインを殺人の罪で糾弾し、追放の罰を与えている。
この解釈なんですけど、神はなぜアベルの献げものを喜び、カインの献げものを喜ばなかったか、書いてないんです。ここは、読みようによってはたいへん理不尽に思える。ここは違和感なかったですか?
O 大いにありますよ。ただ、「創世記」の特に最初の方は、おかしなことが次々に起こるので(笑)、がまんして読めるんですよ。もちろん、これはものすごくカインがかわいそうだと思います。親から愛されなかった子どもみたいなものですからね。心が痛みます。
H つまりね、人間には神に愛される人と愛されない人がいる。いていいの。それは受け入れなければならない。
だって、そんなことを言えば、健康の人と病気の人とか、天才とそうじゃない人とか、人間はみんな違いがあるでしょ。
このすべての違いを、神は、つくって、許可しているわけだから。そうすると、恵まれている人間と恵まれていない人間がいることになって、それは一神教では、神に愛されている人と愛されていない人というふうにしか解釈できないんです。(略)
H さっきのマリアとマルタも女の兄弟同士じゃないですか。だから、二人は似ていて、でも仕事が違う。だからこれは、カインとアベルの物語の変奏だと思う。(略)
まあここは、イエスの話に耳を傾けるのが最大のもてなしだ、という単純な意味に解釈すればいいと思います。」
〇 神は愛と言いながら、神に愛されない人がいる、という話。
ぜんぜん辻褄が合わないです。
この世界をどう理解し、どう受け入れるか、というための苦肉の策で作り上げられた物語。
でも、その「物語」がどうしても必要だったのだ、という気はします。