読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

「正義」を考える  生きづらさと向き合う社会学

「第4章 普遍的「正義」への渇望 リベラリズム再検討
1 イエスの奇妙な喩え話
 <問題提起_イエスリベラリズム?>
次の話を進める前に、ここまでの議論の流れを簡単に復讐しておきます。まず第1章では、主として「八日目の蝉」という小説を読み解きながら、「物語化できない人生」について説明しました。(略)


第2章では、今、世評の高いサンデルの議論を利用しながら、いくつかの正議論を批判的に検討しました。(略)コミュニタリアンの理論のベースになっているアリストテレスを媒介にして考えると、<資本>という現象がまったく視野に入っていないことを明確にしました。


そして第3章では、<資本>なる現象のメカニズムを説明して、それと同じ構造が絶対主義王権や代表制民主主義にも埋め込まれているという話をしました。(略)


そこでこういう問題を提起してみたい。リベラリズムのところで説明したように、カントの議論のポイントは定言命法にあります。定言命法には、非常に明確な普遍性への志向がある。定言命法というものは、ある意味では、キリストの言っている隣人愛をカント的に表現したものでした。


カントは敬虔なクリスチャンですから、キリスト教の原理と結論的には同じになるようなことを言っているわけです。つまりカントの観点からは、定言命法は隣人愛の哲学的な洗練であったはずです。が、イエスの観点からはどうでしょうか。今度は逆に、イエスの立場から、イエスが本当にカントと同じように考えたかどうかを検討してみます。」


「<ブドウ園の労働者の喩え話>(略)

なぜかというと、定言命法というのは、とにかく一律に平等であることが鍵だからです。例えば殺人鬼ですら友人と平等に扱いなさいということが、定言命法から導かれる。最悪の人間と一番仲のいい人間を平等に扱えというのが定言命法のポイントです。(略)


<放蕩息子の喩え話>(略)

この兄の抗議に対して、父親はわけがわからない返答をする。「お前の弟は、いなくなったのに戻ってきた。死んでいたのに生き返った。それを喜ばずしてどうするんだ」、と。


<イエスの原理とは何か?>(略)

しかし、イエスの側から見れば、「ブドウ園」と「放蕩息子」の二つの話は同じ精神にのっとっています。「長く働いた労働者」が兄に、「ごくわずかしか働かなかった労働者」が弟に対応することは明らかでしょう。(略)


ともかく、もう一度確認すれば、「放蕩息子」では、正しかった者(兄)が冷遇され、罪を犯した者(弟)が優遇されているように見えます。カントは間違いなく、この喩え話での「父=イエス」のやり方を否定するでしょう。(略)


しかし、それでも確実なことがあります。ブドウ園の話と放蕩息子の話には明らかに何らかの一貫性がある。その一貫性とは何かということです。イエスはこの二つの話を通じて、何か同じことを言おうとしている。ということは、そこには何か特定できる原理があるはずです。それは何なのか。イエスの観点からは、これらの二つが共に正しく、理想的であり、神の国はまさにそうあるはずだ、と見えているはずです。


それを探ってみる必要があります。
少なくとも次のことは言えます。これら二つの例え話の中の主人や父親の行動を正当化したり、理想化したりする原理、それは、功利主義でないことは明らかだし、コミュニタリアンの原理でもありません。そして、それは、リベラリズム定言命法でもない。イエスは何か別の原理に訴えている。後で僕の答えを言いますが、ここでまず問いを提起しておきます。


<普遍主義のアンチノミー>(略)
異なる共同体、異なる文化、異なる伝統の中にある社会では、われわれの習慣とは異なる、様々なことが行われている。(略)


これらは、我々から見ると、人権侵害に見える。しかし、他方で、それらはいずれも、共同体の共通善や伝統によって正当化されている。こういうとき、われわれはどうすべきなのでしょうか。(略)


その立場からすれば、「人権」とはいえ決して普遍的なものではない。「人権」は、西洋の伝統の中で生まれた、それ自体、特殊な共同体の善の一つであるかもしれません。その場合には、人権の名の下での介入は、西洋文化や西洋的な善の押し付けということになるでしょう。


とすれば、われわれから見ればいかに唾棄すべき行為や制度、習慣であったとしても、それが異なる共同体の共通善によって正当化されているのであれば、それを容認することこそ、真の普遍的な「寛容」である、という議論も成り立ちます。これは、多文化主義相対主義の見解です。



<イエスだったらどうするか>(略)

考えてみれば、ブドウ園の例でも、放蕩息子の例でも、ひどい目に遭っている人には、そのような不幸を正当化する理由は一応あるんです。日没間近まで仕事に就かなかった人たちは、朝から遊んでいたかもしれない。放蕩息子について言えば、怠けてお金を使い切ったから豚並みの生活を強いられている。


しかし、イエスは理由はともかくとして、そのようなひどい目にあっている犠牲者や弱者を優遇しているんですね。そのように考えるならば、イエスは間違いなく多文化主義相対主義には立たず、奴隷や殉死を強制される人を助けにいくと僕は思います。放蕩息子を歓待する原理と同じ論理から、多文化の奴隷を救出するはずです。


ただし、イエスは、リベラルな人権思想に基づいて助けるわけではない。(略)しかし、その違った論理とは何なのか。そこには、普遍主義のアンチノミーを超えるものがあるのか。」

〇ここを読みながら思い浮かんだシーンがあります。
シーラという子」の中の「シャーロットの贈り物」の話です。引用します。

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「例えば”シャーロットの贈り物”を読んでも、シーラはどうして主人公の少女が育ちそこないの子豚のウィルバーをそもそも欲しがるのかをずっとわからないでいた。

ウィルバーは一緒に生まれた子豚たちの中でも、いちばん貧弱な豚ではないか。シーラの頭の中では、彼女の父親ならこの子豚はぜったいに欲しがらないだろうということははっきりと理解できることだった。

ファーンは、その子豚がちっぽけで、育ちそこないなのはどうすることもできないことだから、だからこそその子豚が大好きなのよ、と私は説明した。だがシーラにはそこのところが理解できなかった。」

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〇 この話は、私もよくわかりません。何故、「育ちそこないの子豚」を欲しがるのか。でも、ここで「ブドウ園の労働者」「放蕩息子」を「愚かな出来損ないの人」と捉えた時、この話とこの喩え話が繋がるような気がしました。


そして、もう一点、強く思ったことを書きます。
ここで、大澤氏は、
しかし、イエスは理由はともかくとして、そのようなひどい目にあっている犠牲者や弱者を優遇しているんですね。そのように考えるならば、イエスは間違いなく多文化主義相対主義には立たず、奴隷や殉死を強制される人を助けにいくと僕は思います。」
と、言っています
これは、大澤氏の「考え」です。私はこんな風に、自分の考えをいう人が好きです。しかも、このように考える大澤氏は、いいなぁと思います。