読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

人間にとって法とは何か

「3 イスラム主義・保守派と改革派

イスラム原理主義とは誤解の産物である

次に、イスラム主義の保守派と改革派について簡単にお話しします。
イスラム原理主義と言う言葉が、最近ニュースによく出てきます。イスラム原理主義とは何か、とよく聞かれます。私の答えは、イスラム原理主義などというものは存在しない。原理主義は、キリスト教徒が勝手につけた名前で、誤解の産物だというものです。



原理主義は、英語でFundamentalism(ファンダメンタリズム)と言いますが、プロテスタントの分派の一つです。アメリカの南部にバイブル・ベルト(聖書地帯)と呼ばれる地域があり、カーター元大統領なんかもそうなのですが、「聖書」を熱心に読むおじさん、おばさんたちが大勢います。サザン・バプティストという教会グループをつくったりしています。



「聖書」を熱心に、自己流に読むグループを、あだ名で、なかば馬鹿にして、ファンダメンタリズムとよぶのです。



これはキリスト教特有のものです。どうしてかと言うと、ユダヤ教聖典イスラム教の聖典の読み方は、ユダヤ法の法学者やイスラム法の法学者、つまりプロが長年、研究に研究を重ねて来たので、特定の読み方があって、シロウトが太刀打ちできないのです。だからプロの読み方のとおりに読みます。


ところがキリスト教徒は、長い間「聖書」を読んでこなかった。ルターが「聖書」を読みましょうと言う運動を初めて、それから「聖書」が各国語に訳されて、ここ数百年やっと「聖書」を読むようになったのです。(略)



ですから「聖書」を自己流に読んだのでは、「三位一体説」にならない可能性が高い。こんな感じで、キリスト教徒であるためには、本当は、「聖書」以外にもいろいろな知識がいるわけです。(略)




たとえば、血を飲んではいけないという規定があります。それを、輸血をしてはいけないと自己流に解釈して、その解釈をもとに新しい信者のグループを作ってしまう。本人たちは、「聖書」に書いてあることがそっくりそのまま正しいと信じているつもりである。



でもそうすると、ユダヤ教イスラム教は、全部ファンダメンタリストに見えてしまいます。何しろ聖典を、文字通りに信じているのですから。(略)



イスラム諸国と近代化の問題

では、イスラム原理主義と呼ばれているのは何かというと、イスラム主義過激派なのだと私は思うのですが、その前にもう少し、イスラム諸国における近代化、西欧化について見ておきます。


イスラム法があると、ヨーロッパの制度を取り入れるのが非常に困難です。
これは、日本と比べて見るとわかります。(略)
こういう変わり身の速さが、日本民族の特徴です。それは、日常生活のルールが、宗教的意地を持っていないからです。
だから簡単に捨てることができる。


ところがムスリムの場合、日常生活の一挙一動に宗教的な意味があるわけですから、それを捨てることができない。なにしろ大事な所は、イスラム法に定められている。(略)



まず利子が禁止されているので、ヨーロッパ流の銀行を作ることができない。そこで無利子銀行をつくっています。(略)



次に、イスラム法を重視するので、憲法とか議会とかいう考えが、なかなか馴染まない。(略)


近代社会ならば、決められた日時に、決められた契約を実行しないと、理由はどうであれ制裁を課されて当然であるという、契約自由の原則と契約絶対の原則があります。この契約絶対の原則が、神の法の前で相対化されてしまう。そうだとすると、近代的で合理的な社会をつくるのは、なかなか難しい。




イスラム社会の直面する問題

そこでもたもたしているところに、無理やり近代化する国が出てきます。例えばトルコでは、初代大統領のケマル・アタチュルクが出て来て、一所懸命西洋化を進めました。これはまあ、うまくいった。



イランでは、アメリカの支持のもと、パーレビ国王が近代化を進めようとした。そうすると保守派が、イラン・イスラム革命を起こすわけです。(略)



これはなかなか理解しにくい面があります。改革派といっても、敬虔なムスリムで、時間を守って毎日熱心に礼拝している。(略)


改革派は、どういう考え方をしているか。
日本で昔、天皇親政説と天皇機関説とがあって、論争しました。これは簡単に言うと、天皇の権威と、憲法の権威のどちらが上かという論争です。



天皇機関説憲法の権威が上で、日本は立憲君主制の合法的な国家であり、憲法のもとでは天皇もまた一機関である。こういう考え方です。天皇親政説はそうではなく、天皇は超法規的、超憲法的な存在なのだから、憲法の規定を越えて、親政するのが正しい姿である、日本陸軍、海軍は天皇に直属しているのだから、やはり超法規的に行動し得る。こういう考えです。


私はもちろん、機関説のほうがご利敵だと思うのですが、実際の論争では、なんと機関説が敗れ去ってしまった。



イスラム世界では、イスラム法憲法と、どちらが上位の法概念なのかということが、当然論争になる。かつての天皇機関説論争と、そっくりだと思うのですね。これがイランで起こっている論争で、それぞれが保守派、改革派と呼ばれているのです。



このほかに、イスラム主義過激派というmぽのがあるのですが、これは宗教に名を借りたテロリストのグループで、むしろ政治的党派と考えた方がいいと思います。それを欧米のメディアがイスラム原理主義と呼んでいる。





(略)

アメリカのフェミニストに言わせると、(略)「(略)あなたたちは、チャドルというベールや、ブルカという真っ黒な着物を着せられて、男性にいつも管理され、自由に行動できない。抑圧されています。(略)」というようなことを演説する。



(略)
保守的なムスリマが出てくると、「何を言うか、私たちイスラム教徒の女性こそ、世界でもっとも自由を享受していて、神アラーのもとに守られていて、素晴らしい状態にあります。これ以上解放される必要はありません」と反論して、論争になる。この論争は決着しません。(略)


ところがムスリムの人たちは、神の法は、神が私たちを守る為に特別に授けてくれた法だから、私たちはそれに喜んで従っている。そして習慣になっているから、むしろ自由を感じこそすれ、まったく不自由ではない、こう考えているわけです。そうなるともう、水掛け論ですね。」



〇 自由と抑圧というのは、微妙だなぁと思います。私たちの社会でも、「祝儀不祝儀の時に幾ら包むか」とか「TPOに従って適切な服装をする」とかいうのは、本来「自由」なはずなのですが、結局しきたりや習慣を気にして、皆はどうするか、を気にして、それに従います。


中学・高校では、征服があり、自由はなかった。でも、そのおかげで、貧乏だった私は、必要以上に着るものに神経を使わずに済んで、楽だったのかも知れない。
ムスリマの人の自由もその類の「楽」と繋がっているのかも、と想像しました。

本当は、自由であることをきちんと支える価値観、どんな服装でもそのことを恥じる必要はない、とか、人はみんな違うやり方をしても良い、とかいう考え方が強く打ち出されて、その考え方と一緒に、自由が推奨されて子供が育つのが理想だとは思っても、考え方は「みんな一緒が一番大事」なのに、やり方や姿だけは違う、となると、人の目が気になり、噂や陰口が気になり、結局、自由には出来なくなります。


だからこそ、あの松田道雄さんが言っていたように、学校のやり方や考え方に、民主主義が満ちあふれていることが必要だったのだろうな、と思います。

でも、あの河合隼雄さんが言っていたように、変わるのには、100年200年という単位の時間が必要なのだと思います。