読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

どアホノミクスの断末魔

「●目指すはケアリング・シェア社会

ケアにしっかり裏打ちされ、ぴったり裏打ちされているシェア。これが、我々の白い地下経済の礎となっていれば、鉄壁である。お互いに気づかい合っている人々が日常や市場や情報を常に分かち合っている状態なら、「統合政府部門による財政と金融の一体運営」が始まりそうになった時、そのことをすぐに察知して、お互いに警告を発し合うことが出来る。


いかがわしい官邸版F級未来社会物語などには、惑わされない。そんな怪情報やフェーク・ニュースやオルタナティブ・ファクトなどに、ケアリング・シェア社会の住人たちは踊らされない。ケアリング・シェア社会の住人たちは、大日本帝国会社の「労働社会」計画に誘導されて孤独の渡り職人と化し、分断されていくことはない。


ケアリング・シェア社会の住人たちは、決して、大日本帝国会社の従業員(臣下?)にさせられてしまうことはない。


ここにも一つ、要注意ポイントがある。我々がケアリング・シェア社会ではなくて、ケアレス・シェア社会に踏み込んでしまうことである。


昨今、シェアという言葉は結構なはやり言葉になっている。シェア・ハウス。ライド・シェア。シェアリング・エコノミー。これらの言葉と、それらが描写している風景はケアリング・シェア社会の風景だといえるか。そうなる可能性がないとはいえない。


だが、これらの動きのなかに、おのずとケアの精神が内在しているとは言えないだろう。相乗りタクシーに乗り込んだ行きずりの人々は、お互いに気遣いの想いを抱いているわけではない。どちらかと言えば、なるべくお互いに孤立したままで行きたい。何もシェアしていない感じで行きたい。それこそ、透明人間同士でライドを終えたい。そんな面があるだろう。


もっとも、こんな状況も、気づかい合い社会のベースが出来上がっていく中で次第に変わって行くかもしれない。旅は道連れで、結構盛り上がるのが当たり前。そんな風になれば、ケアリングシェア社会の成熟度は高まる。


「シェア」といえば「ケア」と答える。善良なる市民たちによって構成されるそんな純白地下経済をつくり上げることが出来れば、国策会社「大日本帝国会社」は、土台を構築することが出来なくなる。基礎工事が出来ないから、自爆する。その時こそ、アホノミクスの最終断末魔の時だ。


その時には、哀れ流浪の民と化したチーム・アホノミクスの面々を、気前よく純白地下経済に受け入れてあげよう。もちろん、大将も含めて。この寛大さと大らかさと知的包摂力こそ、ケアリング・シェア社会の真骨頂だ。

啓蒙思想の大家ヴォルテールの精神を、その伝記作家が次のように集約している。

「私はあなたの意見に大反対だ。だが、あなたがあなたのその意見を自由に表明することが出来るためなら、私は喜んで命を捨てる」


これをケアリング・シェア社会の標語にしてもいいだろう。」


〇寛大さと大らかさと知的包摂力。「あなたは、間違っている」と言った相手を受け入れ、包み込む姿勢。先日まで読んでいた「下流志向_学ばない子どもたち 働かない若者_」の内田樹氏の態度とも重なります。

「終章」のあとに「補論」が続いています。

これで、「どアホノミクスの断末魔」のメモを終わります。