読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の中の日本軍 下 (S軍曹の親指)

「「百人斬り競争」を徹底的に調べられた鈴木明氏が非常に興味深いことを述懐しておられる。(略)


<彼は向井少尉には好感を持っていないことを、はじめから明らかにしていたが、こと「百人斬り」の話になると「そんなこと誰が信じてるもんですか」といい、「一人斬ったなんていう話も信じませんなァ」と吐き捨てるようにいった。


僕は、この、ある意味では重大とも思われる証言を、何故か遺族の人たちには、あまり語りたくないような気がした。遺族たちの心の中には、「戦犯」といううしろめたさと同時に「勇士」というイメージがある。無実であるという心と「勇士であってほしかった」という心とが裏腹にあることが、僕には痛いほどわかるような気がしたからである>


前述のように私は、こういった配慮が非常に少なく、何でもズバズバ言い、何でも徹底的に聞きただし、納得しない限りおさまらない人間と思われていたらしい。(略)


戦争が終わってもう二年目、少尉殿などと言われれば、言われた方が驚くのが当然である。その男は私に、S軍曹の遺族のところに立ち寄ってから東京に帰るつもりか、ときいた。私は無愛想にうなずいた。すると相手はいきなり大声で「行かんで下サレ」と叫ぶと、今にもつかみかかりそうな勢いで私につめよった。(略)


「ナニィ、そんなことは貴様にとやかく言われる筋合いはない。行こうと行くまいとオレの勝手だ」相手は答えて「そりゃ勝手じゃろう。だが行って一体遺族に何を言わっしゃる気だ。いつもの伝で何もかもズバズバ言わっしゃる気か!


墓ば掘り起こして手ばブッタギッタの足ばタタッキキッタの、死んだ人間の女房子供に言わっしゃる気か!」といった。私はぐっとつまった。」



「彼がくどくどと言ったことを要約すれば次のような事であったろう。戦場と内地では全く規範が違う。つまらぬ情緒的自己満足のため無益に兵士を殺したことが逆に人道的行為のように見え、部下のことを考えて最も的確に処理したことが非人間的冷酷もしくは残酷にさえ見える。


私はあなたとS軍曹が、上官・部下というより親友であったことを知っている。だからこそ、あなたのことを遺族に誤解させたくない、また遺族を無用に苦しめたり悲しめたりしたくもない。私が話す、どう話すかは私にまかせてくれ、そして「仏心があるなら」生涯S軍曹の遺族には会わないでくれ、何も言わんでくれ、と言った。


彼の言うことは理解できた。彼が私に注意したのは、一に私への親切からであった。私は自分の非礼を詫び、まっすぐ東京へと帰った。しかしその結果、S軍曹の遺族は「事実」は何も知らされていないことになった。そしてこれが全日本的規模で行われたように思われる。(略)


当時は輸送編成で、私は輸送本部付だったが、すっかり慌てて、すぐさま船舶輸送司令部に伝令を飛ばして野戦病院の場所をきき、倒れた兵士を担送しようとした。

そのとき、本軍の先任将校であったS中尉が「山本!ヤメロ、ほっとけ」と言った。
私は驚いてS中尉の顔を見た。私はかねがねS中尉を尊敬していたので、この非常にきつい一言に一瞬戸惑いを感じた。彼は私を見て言った。死んだ兵士のために動いてはナラン、それをすると、次から次へと部下を殺す。


彼の言ったことは事実であった。ほかの兵士も同じように、「地獄船」の異称のあったあの輸造船の船艙から出て来たばかりで、しかも乾期の真っ最中のマニラの炎天下にいるのである。


もし倒れた兵士を担架に載せて、四人の兵士にこの炎天下を野戦病院まで担送させたらどうなるか_その四人も次から次へと倒れて心臓麻痺を起こすかも知れない、結局それは、一見、人道的・人間的なように見える処置だが、実は次から次へと部下を殺す残虐行為にすぎないのである。」



「前述のように、その夜はシナ人墓地で野営した。S中尉は何度も何度も、「一般社会の常識的規範を戦場に持ち込んではならない。それをすれば、立派な行為のように見えても、結局は部下を殺すだけのことになるのだ」と私に語りつづけた。そしてそれがいわば「戦場の入口」であり、すべてが逆転する地点であった。(略)


いささか自己弁護めくが、われわれは他民族よりも、情緒的自己満足のために行動し、あるいは行動させる傾向が強いのではないであろうか。(略)


_南風崎で「行かんで下サレ」と私につめよった兵士が、くどくどと言ったことも煎じ詰めればこのこと、すなわち「私が冷酷無情にみえて、遺族が不当に悲しむから」ということであった。そしてここが「戦場の出口」だった。」


ヴェトナム戦争でも多くの報道がなされた。すべてに目を通したわけではないが、私の見た限りでは、そこに共通するものは、書く者と読む者とが共に住む平和な社会における情緒的自己満足は充足させても、前述のように規範の逆転がすべてにのしかかってくるという状態の中で、


ひとりひとりの人間がどう行動すべきかという基準を全く考えずに、また、一見人道的に見える情緒的自己満足のための行為が実は最も残酷な行為になるということを全く理解しようともせずに、すべてを知らず知らずのうちに自らの「情緒的自己満足」の充足のため批判しているように見える。」


「これから記す「昭和二十年二月二十五日夜から二十七日の未明」までの私の行為は、文字通り愚行の連続であった。ということは、言い方を変えれば美談の連続でもあったろう。あの兵士は、私の二人の部下の遺族に、遺族を悲しませないように話したであろう。


それは言いかえれば、すべてを「美談化」して話したということに違いない。それはそれでよい。遺族を無用に悲しませて、なんの意味があろう。いわば鈴木明氏の配慮を、私は当然のことと思う。


だが一方、それらが積み重なって、結果においては、戦場の実態は実際はだれも口にしないことにもなってしまった。


そしてそれが、三十五年前の虚報が、形を変えて今なお事実で通用する社会的素地の一つを形成してしまったともいえる。それならば、何もかもぶちまけた方がよい。」