読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の中の日本軍 下 (S軍曹の親指)

「昭和二十年二月、フィリピンにおける情勢はもう極度に悪化していた。というより、絶望的と言った方が良いだろう。日本軍の保持しているのはすでに中部の山岳地帯と東地区三州_カガヤン州、イサベラ州、ヌエバビスカヤ州にすぎなかった。


平地はすでにこの三州だけだが、この三州とて全部を掌握しているわけでなく、三州を貫流するカガヤン川の左岸はすでにゲリラの制圧下にあり、日本軍が本当に保持しているのは結局、右岸に沿う一本の自動車道路「五号道路」と右岸の船着場と州都とその周辺、およびジャングル内の陣地だけであった。


とはいえこの「五号道路」ですら、すでにゲリラが出没して、ズタズタであった。


カガヤン河谷(バレー)と総称されたこの最後の穀倉地帯を失えば、全軍餓死である。ここへの進入路は、マニラ方面からは、バレテパス、サラクサフという峠を超える二道があり、海からは、カガヤン河口のアパリ港とその東にある小港ゴンザガしかない。


バレテパスは関東軍から転用された最後の増援部隊「鉄兵団」が守り、サラクサフは、「世界最強」とか「日本軍の最精鋭」とかいわれた「撃兵団」すなわち戦車第二師団が守り、連日ものすごい死闘がくりかえされていた。



「撃兵団」の師団長岩仲中将は日華事変のはじめのころ、有名な隴海線遮断をやった岩仲戦車隊の隊長で、日本における戦車戦のベテラン、しかもこの師団は、全員がキャタピラに乗っているという、まことに「日本軍離れ?」のした精鋭師団だといわれ、「アメ公も「撃」にゃ手も足も出まい」というのが当時の定評であった。(略)


人間の既成概念はなかなか消えないものである。日本軍の実態をすでに見てしまっていたはずの私が、まだ、「無敵の精鋭」や「関東軍神話」をある程度は信じていたのである。従って「日本刀神話」や「関東軍神話」を今なお信ずる人がいても、それは少しも不思議でない。


アメリカ軍は、すでに制海制空権を完全に掌握している。従って両峠がなかなか突破できなければ、当然、アパリかゴンザガに上陸して前面のわれわれを殲滅し、北から南へとカガヤン河谷を制圧して両師団の背後を襲うであろう、これは当然に予想される事であった。



しかし事態は、結局はこの予想の逆になった。まず「鉄」は潰滅してバレテパスは突破され、ついで「撃」は文字通り師団長以下全滅し、これの救援のため転進したわれわれの師団の主力はバレテパスに行きつく前に、これを突破したアメリカ軍とオリオン峠で遭遇して壊滅し、


同時に敵はアパリに上陸して、われわれは腹背から挟撃され、ジャングルの伐開路を東方のサンホセ盆地へと撤退し、ここの入口のビタグの隘路で壊滅し、残兵は盆地周辺のジャングルに立てこもってゲリラ戦を行い、生き残った者が終戦を迎えた、というわけであった。


だが二月二十五日の頃には、もちろんまだ、こういう予測が立っていたわけではない。しかし、バレテパスが危ない、師団は救援のため転進するのではないか、といった噂は流れ始めていた。しかし噂はあくまでも噂にすぎず、われわれは、今に、上陸用舟艇の大群が全海面を圧するような勢いで、白浪をけたてて前面の海浜に殺到するろうと思っていた。」


「当時私がいた位置は、水田が終わり丘陵地にさしかかる五号道路の道端である。ここから先はもう遮蔽物はない。N軍曹は、トラックにダイナマイトを積み、夜のうちにバッタオ正面の無名部落まで行き着こうとしたのだが、車が私の宿舎の少し先の水田地帯の真ん中で故障し、どうにもならなくなって、援助をたのみに来たわけである。」



「しかも九月から始まってすでに五か月続いている雨期は、掘り返した道路を泥濘にしている。その道を無灯火でトラックがトラックを曳行して行くことは、まさに命がけであった。しかも車のポンコツ度は、砲兵隊の車も似たようなもので、第一、曳行する力があるかどうかも不明である。


だが一方、暗いロウソクの光に照らし出されたN軍曹は、連日の激務で疲労し、明らかに栄養失調でやせおとろえ、げっそりした頬と、長くのびた無精ひげ、油だらけ垢だらけ、それが文字通り哀願嘆願という目付で私を見ている。



断われば「危機に陥った友軍を冷たく見捨てた」という後ろめたさがあり、また「冷酷な男だ」という表情を背中に見せて、動かない自分のトラックにトボトボと戻って行く彼の姿が目に浮かぶ。


たとえ応急修理で一時的に無理に動かしても、もし、沼地と湿田にはさまれた一本道ゴンザガ道で再び故障して夜があければ、彼自身は全く逃げ場のない所で二トンのダイナマイトと共に敵機を迎えなければならない。どうすればよいか。つっぱねれば彼は死ぬかも知れぬ。


曳行すれば両者とも死ぬかも知れぬが、いざ「もうだめ」という時は、動く方へダイナマイトを積みかえて無名部落まで行けるかもしれぬ。だがそれは越権の処置である。夜のうちに無事帰って来られれば、問題にはならぬ。しかし、事故を起こしたらどうなる_そしてその確率は絶対に「万一」とは言えない。



結局私は、最も通俗的な美談的愚行を選んだ。自分で両車両を指揮して無名部落まで曳行することにしたのである。「何が起ころうとおれが自分の命をかけてりゃ、だれも文句はあるまい」という、いわば「体を張って」的な自己弁護の道、最も安易な道を選んだ。(略)


その時私は、マニラ埠頭でのS中尉、すなわち今の指揮班長の注意を思い出した。いやな予感がした。しかし、もう後へはひけない。夜中の一時頃、廃車寸前の車が、おそらく曳行して目的地についてもそのまま廃車であろうと思われる車をひいて、すでに、日本軍の勢力圏内にあるといえぬ地帯の、危険極まりない泥濘の道を、無灯火で走り出したのである。まさに、マニラ埠頭の再現であったろう。



道は難渋をきわめた。しかし予感は一見、当たらなかったように見えた。私は七時ごろ、徹夜と神経の消耗でふらふらになりながらも、無事帰隊した。S軍曹は私を見るなり言った。「師団兵器部のT中尉殿から、再三お電話です」(略)



おそらく最後の補給であろう。ダイナマイトはいくらあっても足りないほどほしかった。(略)」


「その時S軍曹が飯盒を下げ、O伍長と人夫七名とともに出て来た。彼は飯盒を運転手のN兵長へ渡し、「今食うな、積載の間に食えよ」と言うと私の方に向き、自分とO伍長で行くから、一休みして食事をすませてくれと言った。


徹夜した私が行くより、昨夜よく寝た自分たちが行く方が能率があがるし危険が少ない。時間がないから早く行って早く帰った方がよい、と。それは一理あった。確かに爆発物を扱う時、また危険地帯であらゆる注意が肝要なとき、疲労は禁物である。


私がうなずくと、彼はすでに人夫が乗り込んだ車の助手席に乗り、私の方を向いて「すぐ戻ります」と言い、駕橋(ボデー)のO伍長に「後方への対空監視たのむぞ」と言うと、出て行った。これが私が聞いた彼の最後の言葉だった。三十分後に、N兵長と人夫二人のほかは、全員が死体となっていた。」