読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の中の日本軍 下 (捕虜・空閑少佐を自決させたもの)

「一体全体「捕虜になったら自決せねばならぬ」という「規定」はだれが制定したのかという問題である。陸軍刑法にはそんな規定はない。従って天皇が裁可した規定ではない。戦後には、この問題でよく引き合いに出されるのが「戦陣訓」だが、「空閑少佐事件」のときは「戦陣訓」は存在しない。



そして部隊長の意見では、そうではなくて、実は日本の新聞がきめた「規定」だということであり、その発端が「空閑少佐事件の報道」だというのである。



これは、上海事変のとき、日本軍の一個連隊が中国軍に壊滅させられた時の話である。何しろ「マスコミ無敵皇軍」には敗北はないはずだから、知らせずにおけたらそれが一番なのだが、連隊長は戦死し、大隊長の空閑少佐は負傷して人事不省になり、捕虜になってしまった。


事変は短期間で終わり、停戦・捕虜交換となる。当時はまだ「捕虜は自決セエ」の時代に入ってなかったから、すべてを_一個連隊の壊滅を含めて_明るみに出さないわけにいかない。


ところが、これがすぐ「美談」にすりかえられてしまった。(略)


その「美談」によれば、重傷の空閑少佐を乱戦の中から助け出したのは中国軍の甘中尉で、彼は日本の士官学校に留学したことがあり、空閑少佐はそのときの恩師であり「師を救った」というわけである。


感激的な「敵味方を越えた美しき師弟愛の発露」の物語であり、そして一個連隊全滅の事実はこれによってどこかへ消えてしまうわけである。
「どうもこの話は少し変だな……」部隊長はやや皮肉に苦笑して言った。


というのは記事によればそれは野戦なのである。そして大隊本部は全滅したわけでなく、全員が「大隊長殿!大隊長殿!」と叫んで、闇の中を死に物狂いで探したがわからなかったと、記されている_ということは、負傷した大隊長をほったらかしてみな逃げた、といって悪ければ撤退したということである。


そこへ中国軍が飛び込んできた。
戦場の闇は、文字通り鼻をつままれてもわからない真の真っ暗闇である。また前線で不用意に懐中電灯などふりまわす非常識人はいない。まして陣地奪還の逆襲の恐れがあるときは、敵味方を問わず、負傷者の後送などは後回しになる。それどころではない。


ところが日本側は連隊長が戦死した。これは最後の軍旗中隊まで壊滅したという惨憺たる状態か、連隊長を放り出して逃げたかのどちらかのはず、従っていずれにせよ逆襲能力はない。そこで助けを求めて呻いている負傷者を後送したわけであろうが、暗闇でわからないため、ある地点までは、空閑少佐は、おそらく中国兵と誤認されて担送されたか、あるいは自ら助けを求めたかであろう。


それが普通の人間であり、そして人間はほっとすると人事不省になる。従って人事不省は担送後であろう。そうでなければ暗闇だから死者と間違って放置されるはずである。


そして日本軍の佐官であることがわかったのは、おそらく仮繃帯所についてからであろう。佐官クラスの捕虜はどこの国でも「大切」にする。これは実に貴重な情報源で、その氏名・階級・所属がわかっただけで、正面にいるのが、どこの連隊でどの程度精強か判断できるからである。


従って「通達」が出されて、日本語のできる、士官学校への留学経験者が呼び出され、そこでその教え子である甘中尉が出て来たというわけであろう。これならば不思議ではない。



いずれにせよ空閑少佐は「大切」にされ、事変終了と共に捕虜交換で日本側に引き渡された、そして軍法会議にかけられたが、「人事不省」で「捕虜」になったと認められて判決は「無罪」。



ところが、彼は内地送還の直前、戦死した連隊長の墓標の近くで自殺したという。(略)



いずれにせよ当時のマスコミは例の手で「激戦の記事」「師弟愛美談」「微笑を浮かべて自決」「武士道の華」を巧みにミックスして、この全滅・捕虜事件を隠し、彼を一種の偶像とした。」