読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の中の日本軍 下 (「時代の論理」による殺人)

「前章で述べたように、二人の致命傷となったのは「紫金山麓」「十日の会見」の記事である。(略)


これらを検討すると、いかなる人間もその時代の一種の「論理」なるものから全く自由ではあり得ないと思わざるを得ない。問題は、ただその「論理」というものに迎合するか、あるいはそれに抵抗して自己の良心を何とか守り抜くか、という点だけであろう。この記事を「事実」と判断するにあたって、内心の躊躇を感じなかった判事はおるまい(略)




従ってこの際、あくまでも公正を期すなら、法廷は、浅海・鈴木両特派員を喚問すべきであった。それをしなかった点では一種の「政治裁判」といえる面を否定できない。(略)



鈴木特派員自身の行動・時間・記述した時の位置は大筋においては信頼できる。というのは、全く関連なく別の機会に、別の雑誌に時間的に非常に間隔をおいて発表された二つの記述が、この点では矛盾なく繋がるだけでなく、「ありえないはず」の記述が皆無だからである。


興味深いことは、このことが鈴木特派員だけでなく、鈴木明氏が取材した当時の全ての従軍記者の談話に見られることである」




「ではなぜ「十一日・四者会合」という事実をわざわざ「三者会合」にして、向井少尉が上申書ではっきり否定しているし、鈴木特派員の証言からも明らかに虚偽である「両少尉十日正午会談」をデッチあげる必要があったのであろうか。



二人を処刑させたのが、この「十日会見」の記述なら、この「百印斬り競争」の問題点の一つも、この「十日会見」のデッチあげの理由にある。なぜこういうことをしたのか。何故そのままの事実を書かなかったのか?



まず第一に、記事によれば、それは「飛来する敵弾の中で」「敗残兵狩りの真最中」なのであって、二少尉が、のんびり会見できる状況でないことにしたからでもあろう。




この中で、私を憤激させたのは、「狩り」という言葉が_これは「談話」でなく「地の文」で、おそらく浅海特派員の言葉だと思われるが_この「人狩り」といった「感覚」が、この四報のはじめから終りまで、浅海特派員の「創作心理」の底に有る事である。



「百人斬り競争」自体が一つの「人狩り物語」だから、これは簡単に本多版「殺人ゲーム」に転化しうるわけだが、この「感覚」は、それにつづく向井少尉の長広舌のうち、その時点の自分の状態を語った部分を読むと向井少尉の「感覚」ではないことがわかる。




すなわち「……残敵あぶり出しには俺もあぶり出されて弾雨の中を「えいままよ」と刀をかついで棒立ちになってゐた」には、この感覚はないのである。この言葉を今の表現に直せば「敵は強くてどうにもならない。そこでついに砲兵が赤筒(催涙ガス弾)を撃ち込んだわけだが、そのガスが逆流して来てこっちも酷い目にあった、全くどうにもならず、涙をボロボロ出し、喉の痛みをこらえ、鼻をすすりながらただ突っ
立っていた」ということである。


この推定は前に「文芸春秋」に記したが、鈴木特派員もほぼ同じことを述べている。
一体全体、この状態がなぜ「狩り」なのだ。彼自身は自分の置かれた状況について、そういうことは一言もいっていないではないか!


ここには、相手の言っていることが逆なのに、それを自分の創作の枠にはめ込んでしまおうとする意図が見られ、それは明らかに浅海特派員の意図であって、その枠がすなわちはじめから終りまで「人狩り物語」なのである。



そしてこの「飛来する敵弾の中」の「人狩り」の真最中を事実らしく見せるには、ここに野田少尉が登場して四人が「おしゃべり」するわけにはいかない。これが彼を消して二少尉の会見を「十日」にもっていった理由の一つであろう。




そして「十日」にもっていき、十日に取材したような顔をしているから、記述の中に「十一日からいよいよ……はじまった」という奇妙な文章が入ってしまったのであろう。前述のようにこの言葉は、十一日以降に記されたのでなければ、意味をなさない。



そして「敗残兵狩り」すなわち「人狩り」という印象を与える記述は、誰が読んでも「戦闘行為」でなく、「戦闘中の行為」ではあっても捕虜もしくは戦闘能力喪失者もしくは戦場にいる非戦闘員の虐殺としてしか受け取れないのが当然だから、戦犯法廷これを「戦闘行為」と認定せよという方が無理になってきてしまう。



だがこれはあくまでも記者の記述であって、向井少尉には関係ない言葉である。だがこれが二人の運命の決定に大きく作用したことは、否定できない。




四人の会合は実際は安全地帯でなされたことは、鈴木特派員の言葉からもうかがえる。前にも述べたように第一、銃弾が飛来する中で、こんなのんきなことはやっていられない。なぜこういうことをしたのか。



結局、これは、この問題の解明にあたって最初にのべたように、われわれも砲煙弾雨の中で活躍しておりますという、従軍記者の自己顕示欲と、佐藤カメラマンのいう「ボーナス」獲得のための産物以外の何物でもあるまい。戦場とはそんな所ではない。「人狩り」的感覚で「武勇伝」を語りたがっているのは実は記者なのである。



だがこの問題は、以上の解釈だけでは解決がつかない。(略)



前にのべた「記者の自己顕示」だけなら、他の方法による誇張・潤色も出来るはずである。従ってこれは、単に誇張・潤色だけでなく、何かを隠蔽するために行っていると考えねばならない。一体この操作で浅海特派員は何を隠そうとしているのであろうか。」


〇次々と政治家が噓をつき、不正が明らかになった。それにも関わらず、なんら問題にもされない。その場合、その裏にどんな事情があるのだろう?と勘ぐりが生まれるのは当然だと思います。

かと思えば、あれほどの大きな嘘も不問に付して、平然としていた権力者たちが、
今度は、文科省の担当者の不正を次々と暴き立てています。

公文書改ざんという信じられないほどの不正にはなんら対処しない権力者なのに…です。

「不正を暴く厳しい態度」があるなら、当然それ以前のどんな不正に対しても、厳しい態度になるはずなのに、そうはならない。
その場合、ここにも、何か意図があるのだろう、という勘ぐりが生まれます。